1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫は、
「天人五衰」の最終原稿を新潮者の担当者に手渡した後、
「盾の会」のメンバー4人と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、
午前11時55分頃、本館の前に自衛隊員を招集させました。
本館の2階バルコニーに立って演説をしようとする三島由紀夫に向かって
集まった多くの自衛隊員は野次・怒号を飛ばしました。
これに対し、三島由紀夫は
「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。・・・4年待ったんだ。」と反論しました。
怒号と野次が飛び交う中、演説を終えた後、
陸上自衛隊市谷駐屯地東部方面総監室において
「盾の会」会員1名とともに割腹自殺をしました。
自決した年の4年前というと1966年(昭和41年)のことになります。
その4年間、三島由紀夫の周囲はどんな状況だったのでしょうか。
1961年1月に「小説中央公論」に掲載された小説「憂国」は、
二・二六事件に加われなかった新婚の将校夫妻が事件の二日後に割腹自殺をするという物語ですが、
1966年4月、三島由紀夫自身の監督主演により映画化され上映されました。
三島由紀夫は「三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編をよんでもらえばよい」とまで言っています。
1968年10月には、私財を投じて民兵組織「盾の会」を設立しました。
当時、「おもちゃの兵隊さん」と揶揄されました。
1960年代後半は「全共闘」と呼ばれる学生運動の全盛期でした。
1969年5月、東大駒場キャンパス900番教室において、黒のポロシャツを着た三島由紀夫は1000名ほどの全共闘の学生を相手にたった一人で討論をしています。
命を懸けた対話だったと思います。
対話の最後は「諸君たちの熱情は信じる」という言葉だったそうです。
遺作となった『豊饒の海』は月刊誌『新潮』に掲載されました。
単行本の発刊日とあわせて記載します。
「春の雪」1965年(昭和40年)9月~1967年(昭和42年)1月・・・1969年1月発刊
「奔馬」 1967年(昭和42年)2月~1968年(昭和43年)8月・・・1969年2月発刊
「暁の寺」1968年(昭和43年)9月~1970年(昭和45年)4月・・・1970年7月発刊
「天人五衰」1970年(昭和45年)7月~1971年(昭和46年)1月・・1971年2月発刊
『豊饒の海』には創作ノートが残されていて、それによれば
「奔馬」1965年2月、「圓照寺」1965年2月、「大神神社」1966年8月、「神風連1966年8月」という記録があります。
自決前の4年間と『豊饒の海』4部作の執筆は三島由紀夫の中で並走していました。