『豊饒の海』その全てを包みこむ「圓照寺」 ―50年前の今日「それも心々ですさかい」―

「君はのちのちすべてを忘れる決心がついているんだね」

「ええ。どういう形でか、それはまだ分かりませんけれど。

私たちの歩いている道は、道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終って、海が始まるのは仕方がございませんわ」

(『豊饒の海』「春の雪」より、松枝清顕と綾倉聡子との会話)

 

 

豊饒の海』4部作のカギとなる「月修寺」 

圓照寺はその「月修寺」のモデルです。

 

圓照寺を訪れた秋の或る日、

寺の山門へと登っていく道は

時折小雨が降る中、いろ鮮やかさを増した紅葉があるものの

だれひとり歩く人もなく

唯々静寂が辺りを包み込んでいました。

 

(『豊饒の海』を読んでいない方はここから先には進まないでください。

ネタバレを含んでいます。)

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松枝清顕が亡くなってから61年が経った1976年(昭和51年)7月22日

81歳になった本多繁邦は再び月修院を訪ね、

今は門跡となっている綾倉聡子に会います。

 

 

「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やら人違いでっしゃろ」

「しかし、御門跡は、もと綾倉聡子さんと仰言いましたでしょう」

「はい。俗名はそう申しました。・・・私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?」

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば・・・それなら勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。』

門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。

「それも心々ですさかい」

(『豊饒の海』「天人五衰」より、本多繁邦と月修寺御門跡との会話)

 

 

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1970年(昭和45年)11月25日

50年前の今日

 

三島由紀夫

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから

自衛隊員に対し、憲法改正のための自衛隊決起を訴えましたが、

その思いが通らぬと知り

同行した「盾の会」隊員1名と共に総監室で割腹自殺を遂げました。

 

 

 

割腹自殺を遂げた日の朝、

豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終原稿が出版社の担当に手渡されています。

 

豊饒の海』「天人五衰」の大半は未来の話です。

天人五衰」のスタートは、主人公の安永透が15歳の時で

彼が見る船舶日報の日付けは昭和45年5月2日(土)となっています。

即ち、「天人五衰」の話の時期は、

脱稿する昭和45年から昭和51年までの5年間です。

 

物語の最後が

脱稿の時から5年後になっているのは何故なのでしょう?

 

しかも、最終巻では主人公達の輪廻転生を否定し、

清顕から託された輪廻転生を見届けるという本多繁邦の生き甲斐も成就させず、

読みにくい部分を乗り越えて『豊穣の海』四部作を漸く読み通した読者をも途方に暮れさせます。

 

「道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終って、海が始まるのは仕方がございませんわ」

三島由紀夫が歩んだ道も、道ではなく桟橋だったのでしょうか。

 

「勲は久しく夢見た維新を成就することなく死んだが、よし維新が成っても、そのとき彼がいやまさる絶望を感じたことは疑いがない。失敗しても死、成功しても死、ということこそ勲の行動原理であった筈だ。しかし、人間の不如意は、時の外へ身を置いて、二つの時、二つの死を公平に較べてみて、どちらかの死を選ぶということができないことだ。維新のあとの幻滅を味わって死ぬのと、味わわないで夙く(はやく)死ぬのと、等分に並べて撰み取る術(すべ)もないことだ。」

 (『豊饒の海』「暁の寺」より)

 

まるで評論家が書いたような文章ですが、三島由紀夫が作中で本多繁邦の口を使って書いたものです。

聡明な三島由紀夫は、当然の如く、現実の自分自身についても

例え維新が成っても(三島の檄により、万が一自衛隊が決起したとしても)

その後では幻滅を味わうことを理解していたのでしょう。

 

1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した三島由紀夫と森田必勝さんの荒魂が、今は和魂となっていることを願ってやみません。

 

三島由紀夫没後50年目の秋のある日、

多くの謎も死も何もかもを包み込んで

圓照寺は深く静寂を保っていました。