小倉藩城主小笠原氏の別邸「下屋敷(御遊所)」跡を復元したもの。
天守閣から見下ろした下の写真の下段中央から左にかけての建物と庭園です。
色褪せた紅葉
赤い色の「マンリョウ」
松本清張記念館は、小倉城を挟んで小倉城庭園の反対側にあります。
天守閣にあった下の説明写真の右下に位置しています。
とりわけ昭和の歴史を膨大、書斎の再現が説明されていて
なかなか見ごたえがありました。
な資料で考察した「昭和史発掘」は
「週刊文春」の1964年7月4日号から1971年4月12日号まで掲載したものですが、
「二・二六事件」について極めて抒情的に受け止める三島由紀夫と
当時の「政府と軍」「軍の内部抗争」「庶民の苦しい生活」に翻弄される青年将校達が軍の政略の駒のごとく扱われている状況を資料で克明に追及する松本清張との違いを
強く感じました。
松本清張記念館には、無料の読書コーナーがあります。
大半は松本清張の作品が収納されているのですが、
この中に「埴谷雄高全集」が収録されていました。
非常に高価で、読まれた形跡も少ない全集ですが
何気なく読書コーナーに収録した記念館の関係者の慧眼に驚き
心の中で密かに喝采を叫び
時間の許す限り『不合理ゆえに吾信ず』と『死霊』の一部をパラ読みしてしまいました。
埴谷雄高は松本清張と同い年で三島由紀夫より16歳年上ですが、三島由紀夫の文学を高く評価しており、また三島由紀夫も埴谷雄高の文学を高く評価しています。
二人は対談(正しくは鼎談)したことがあり、
寡作の埴谷雄高が政治に対抗する文学の可能性·必要性を語ったのに対し、
多作の三島由紀夫は文学の限界・行動の優位性を主張していたように記憶しています。
1963年に、中央公論社が
川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫など7名を編集委員として招聘し
「日本の文学」全集の発刊を企画します。
第一回編集委員会で、松本清張が候補者に入っているのを見つけた三島由紀夫が
「松本清張はだめです。清張の作品には文体すらない」と言って大反対し、清張を押す川端康成と大論争になったそうです。
筋トレをして肉体改造をしたときの美輪明宏とのやり取りを聞くと
三島由紀夫の子供っぽさ(独り善がり)を感じます。
しかしながら、
三島由紀夫の作品が多くの人の心をとらえるのは
自衛隊での割腹自殺という行動ゆえなのか、作品そのものに内在する魅力なのか。
ちなみに管理人は後者の立場です。