小さな旅、美しい風景、写真 そして温泉と銭湯

"Japan, short trips and landscapes" "Japon,

イルミネーションのような枝垂れ梅 ― 先行画像 ―

三重県鈴鹿市いなべ市で、梅の花が見事に咲き始めました。

鈴鹿の森庭園」の枝垂れ梅ライトアップ画像を先行して掲載します。

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www.akatsuka.gr.jp

 

まだ暫くは見頃時期が続きそうです。

昼間も十分にきれいですし、

明るい時間でなければ見ることが出来ない景色もありますが、

夜のライトアップされた景色は別世界です。

 

出来るだけ早く

撮影した画像を整理して

いなべ市の梅林」と「鈴鹿の森庭園」の梅をご紹介していきたいと思います。

 

ライトアップが美しいのは、17時半頃から20時まで。

十分な防寒対策をして。

 

ブログの表題を「気まぐれブログ」と変えなければならないほど

ズボラなブログになってしまっておりますが、

それでも2月23日に

アクセス数が35000に到達致しました。

訪問者の皆様に心より御礼申し上げます。

 

 

朝日射す「 暁明ヶ滝」にあらわれた虹

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岩屋堂「暁明ヶ滝」に朝日が射しこみ始めたとき、見事な虹が現れた。

 

滝の手前には、

1300年ほど前に、

行基上人が聖武天皇の病気の治癒を祈願して薬師如来をはじめ三体の仏を彫ったという

巨岩の洞がある。

 

 

 

博物館明治村の交通網の歴史遺産≪#3≫ ― 支える人々とその他の貴重な資料―

 

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昨年1月の新聞に

「初の女性SL機関士誕生」という記事が出ていました。 

2016年乗り物担当職員として入社、京都市電の運転士となりましたが

SLの機関士を希望、

SL車掌、SL機関士助手の実務経験を経ながらボイラー技士免許を取得し

ついに念願のSL機関士になったそうです。

 

 

博物館明治村には、SL、市電の他にも貴重な展示物や資料があります。

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天皇陛下のお召列車の車両です

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「名電1号形」明治34年製造

名古屋電気鉄道(現在の名古屋鉄道)および札幌の市電として昭和の初期まで活躍

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東京市街電車鉄道案内図」

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下渋谷村、北品川宿といった地名が目を引きます。

現在の山手線が、新宿停車場~渋谷停車場近で「新宿線」(「品川線」ではない)、

新橋停車場~品川停車場~横浜方面へ伸びる現在の東海道本線が「東海線」

と書かれています。

大きく引き伸ばして、詳細を掲載したいほど面白い。

 

 

残念ながら、

SLの客車は、走行中にデッキに出ることは出来ません。

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博物館明治村の交通網の歴史遺産≪#2≫ 京都市電とボンネットバス

東京からリニアより速い蒸気機関車で 名古屋まで来ました。

名古屋で接続しているのは「京都市電」です。

名古屋~京都七条~品川灯台となかなかユニークな経路を走っています。

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蒸気機関車と市電に乗れるお得な「共通一日券」が800円で発売されています。

 

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世界で最初の電車の一般営業は1881年に開通したドイツ・ベルリンの路面電車です。

それから14年後の1895年(明治28年)に、日本で最初の一般営業の電車が京都の路面電車として営業をスタートします。

 

電車は自分では動力を保有していないので、架線(トロリー)から電気を補給してもらいながら走ります。

現在、集電装置は「ひし形」や「くの字形」のパンタグラフが主流ですが、

下の画面のように、電車が初めて登場した頃はトロリーポールでした。

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車体の前にエンジンを配置したボンネットバスレトロな雰囲気を醸し出していますが、

博物館明治村のパンフレットやホームページには特にコメントがないので、単なる「昔風のバス」のようです。

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ところで、

京都市電の電気はどこで発電していたのでしょうか?

 

明治時代になって、京都は東京遷都の影響で人口が減少し産業も減少傾向が表れ始めました。

第3代北垣京都府知事は、京都の経済回復のために琵琶湖疎水を計画します。

灌漑・水運・上水道を目的として琵琶湖から水路を曳こうという計画です。

1885年(明治18年)に着工し、1890年に部分完成しました。

 

途中から、発電計画も加えられ、1891年(明治24年)に蹴上発電所が完成します。

その電力が、

1895年(明治28年)日本で初めての一般営業の電車「京都市電」の動力となりました。

 

電車による事故を防ぐ為、「告知人」と呼ばれた少年

昼は旗を持ち、夜は提灯を持ち

「電車が来まっせぇ」「あぶのっせぇ」と叫びながら

電車の10mほど前を走っていました。

 

ところが、告知人の少年が電車に曳かれる事故が幾つも発生し

告知人制度は廃止されたそうです。

 

また、毎月1日と15日は

発電所の藻を除去する日になっていて

この日は市電も休業となっていました。

 

 

博物館明治村の交通網歴史遺産≪#1≫ SL転車台 ― 転車作業を間近で見る ―

 再び、昨年の秋に訪れた博物館明治村の記事に戻ります。

 

martintan.hatenablog.com

 

 

martintan.hatenablog.com

 

 

martintan.hatenablog.com

 

 

martintan.hatenablog.com

 

 

博物館明治村の交通手段は

東京~名古屋間の蒸気機関車

名古屋~京都間の市電、

そしてボンネットバス

全てが歴史遺産です。

 

 

博物館明治村蒸気機関車の自慢。

一つは、東京~名古屋間をリニア新幹線より短時間で結んでいることだそうです。

確かに所要時間は10分程度。

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二番目は、所有する二つの蒸気機関車の歴史的価値です。

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 そして三番目は、(恐らく)現在の日本で使用頻度が最も高い「転車台」です。

「転車台」は、起点の東京と終点の名古屋にあります。

  

先ほど博物館明治村のホームページを確認したところ、現在は

名古屋駅の転車台がメンテナンス中で臨時ダイヤで運行中」と出ていました。

驚異的なスピードを維持するためには徹底的なメンテナンスも必要でしょう。

 

東京駅に到着した後、蒸気機関車は、

客車を駅に残したまま駅の前方にある転車台で方向転換をし、

その後、駅を通り越してからバックで駅に停車中の客車に再び連結されます。

一連の流れを見てみましょう。

 

 

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この日に使用されていたのは

1912年(明治45年)アメリボールドウィン社製された「9号機関車」

富士身延鉄道日本鋼管鶴見製鉄所で活躍していた蒸気機関車だそうです。

 

 

名古屋駅側の転車作業も載せておきます。

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チック・コリアの死を悼む

ジャズピアニストのチック・コリアさん(79歳)が、

2月9日に亡くなったとの報せを聞きました。

マイルス・デイヴィスのグループでキーボード奏者として活躍した後、

自らのグループで「リターン トゥ フォーエバー」の大ヒット。

 

当時、子供ながらに、

アイアート・モレイアのパーカッションに代表されるラテン系リズムの強調と

ジャズとしては軽やかなメロディーに新鮮さを感じた記憶があります。

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   ( ↑ 野間灯台の夕暮れ)

 

 

ハービー・ハンコックキース・ジャレットとともに

「ビッチェズ・ブリュー」以降のジャズをリードした偉大なピアニストでした。

ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

氷雨に煙る東京駅丸の内口

舞台は東京に移ります。

 

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 濡れた路面に街灯や車の赤いテールライトが反射して

人も車も少ない閑散とした街並に彩を添えています。

初冬の久屋大通公園 ー テレビ塔復活 ―

おはようございます。

朝っぱらではありますが、

昨日の重い話から「綺麗な夜景」に移行します。

 

 

名古屋テレビ塔は、1953年(昭和28年)9月に着工し、

突貫で工事を進め

翌1954年(昭和29年)6月には完成し開業しています。

 

高さ180m。

東京タワーの4年前の完成であり、当時は東洋一の高さだったそうです。

 

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(コロナ警報で赤いイルミネーション点灯)

 

 

それから65年を経て、

2019年(平成31年)1月から免振および改修工事に着手、

今年9月に営業を再開しました。

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   (↑ 右上にテレビ塔の下部が写っています)

 

 

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昨年末以降、夜間の人通りは極端に少なくなっています。

早期に、人も街も社会も明るさと賑わいを取り戻しますように!!




 

小倉と幻の原子爆弾

「迎え虎」の紹介で始まった小倉の話。 

最後は原爆の話になります。

 

 

犠牲者の大多数が戦闘員ではなく民間人という原子爆弾

だから、脅迫でもあり抑止力にもなるという皮肉なパラドックス

世界中でその恐ろしい被害を被った歴史を持つのは広島市長崎市の2か所のみです。

 

 

1945年8月6日午前8時15分、リトルボーイが一瞬にして広島を廃墟に変えた。爆心地から半径1200m以内にいたほぼ全員の人が亡くなりました。

そして、1945年8月9日午前11時2分、ファットマンが一瞬にして長崎を廃墟に変えた。

20万人以上の人が亡くなり、その後も多くの方が火傷や放射線障害に苦しめられています。

アメリカで触れられることは少ないようですが、

 長崎では、捕虜収容所にいたアメリカ兵捕虜8名も原爆の犠牲となったそうです。

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 量子力学の偉大な先駆者の一人であるデンマーク人のニールス・ボーア

1939年4月25日にアメリ物理学会で「ウラン235核分裂をし易い」という説を発表しました。

ここに原子力利用の歴史が始ます。

 

母がユダヤ人のボーアは、第二次世界大戦が始まりナチスドイツによる欧州支配が広がる中、ユダヤ人迫害を逃れ1943年に英国に移りました。

イギリスやアメリカにおいて核分裂が兵器として研究開発されているのを知り、イギリスのチャーチル首相やアメリカのルーズベルト大統領に原子力の国際管理の必要性を訴えますが認められず、

アメリカでの核兵器開発は恐ろしい速さで進められました。

 

1945年(昭和20年)は

日本の降伏により第二次世界大戦(太平洋戦争)が終了した年です。

この年、市井の人が何も知らないなか、

恐怖の選択が二転三転しながら進んでいきます。

 

4月27日に、原爆投下の候補地として日本の17都市がノミネートされました。

5月10日の第二回選定委員会では、京都、広島、横浜、小倉の4都市があげられました。

5月28日の第三回選定委員会では、京都、広島、新潟の3都市があげられました。

6月14日、京都が除外され、小倉、広島、新潟の3都市があげられました。

7月16日、アメリカ海軍重巡洋艦インディアナポリス原子爆弾の部品を積んで、サンフランシスコ港を密かに出港しました。

 

7月25日、「原爆投下指令書」が発令され、「8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下」することになりました。

アメリカ軍重巡洋艦インディアナポリスが7月28日にテニアン島の基地に到着しました。

ウラン235は、別途ダグラスC45輸送機によりテニアン島に空輸され、テニアン島基地で秘密裏に原子爆弾が組み立てられました。

8月2日、アメリカ軍第20航空軍司令部は8月6日の攻撃を決定、投下地区は広島、予備候補地は小倉、長崎に決まりました。

 

そして、1945年(昭和20年)8月6日

世界で最初の原子爆弾が広島に投下されました。

 

8月8日、第20航空軍司令部は8月9日の第二次攻撃を決定します。

投下地区は小倉、予備候補地は長崎でした。

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8月8日、マリアナ諸島基地を発進したB29爆撃機221機は八幡に45万発の焼夷弾をばら撒き、八幡の市月街地の1/5が焼失し約2900人が犠牲となりました。

 

この火災により、翌8月9日の小倉上空の視界が悪化したために、

2発目の原子爆弾は、小倉ではなく予備候補地の長崎に投下されました。

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8月10日、アメリカ合衆国トルーマン大統領は「これ以降の原爆投下を中止する」との指令を出します。

 

数十万の非戦闘員の命を左右したのはこんな偶然で、しかも簡単に決められていたとは。。。

 

日本帝国軍でも陸軍・海軍それぞれで原爆の研究開発は進められていましたが、

当然極秘情報であり、広島、長崎に投下された爆弾が原子爆弾であることを国民に公表したのは8月11日のことでした。

 

 

 新潟県では、広島、長崎への原爆投下の報を受け、

朝鮮半島との物資輸送の拠点港である新潟港があるにもかかわらず、

大規模な空襲を受けていなかった新潟市への原爆投下の可能性を危惧し

新潟県知事が知事布告を発令して新潟市民の強制疎開を命令。

終戦の前々日の8月13日から

終戦の三日後の8月18日までの五日間

新潟市はさながらゴーストタウンの様相を示していたそうです。

それを杞憂というのか、英断と評価するのか。

 

コロナ感染に怯える現在の

感染症対策を講じる政治への評価に通じるものがあります。

多くの問題を内在しているとは言え

こうした記録を、嘘や隠蔽もなくきちんと保管しているアメリカの政治の見事さも。

 

追記します。

アメリカ大統領ジョン·F·ケネディの国連での演説の一部です。

「人類は核というダモクレスの剣の下で暮らしている。それは細い糸でつるされ、いつ何時にも事故か誤算か狂気により切れる可能性がある。」

初冬の「小倉城庭園」と「松本清張記念館」

小倉城に隣接する「小倉城庭園」は

小倉藩城主小笠原氏の別邸「下屋敷(御遊所)」跡を復元したもの。

 

天守閣から見下ろした下の写真の下段中央から左にかけての建物と庭園です。

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色褪せた紅葉

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赤い色の「マンリョウ

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松本清張記念館は、小倉城を挟んで小倉城庭園の反対側にあります。

天守閣にあった下の説明写真の右下に位置しています。

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松本清張記念館では、松本清張の生涯、膨大な作品

 

とりわけ昭和の歴史を膨大、書斎の再現が説明されていて

なかなか見ごたえがありました。

な資料で考察した「昭和史発掘」は

週刊文春」の1964年7月4日号から1971年4月12日号まで掲載したものですが、

二・二六事件」について極めて抒情的に受け止める三島由紀夫

当時の「政府と軍」「軍の内部抗争」「庶民の苦しい生活」に翻弄される青年将校達が軍の政略の駒のごとく扱われている状況を資料で克明に追及する松本清張との違いを

強く感じました。

 

 松本清張記念館には、無料の読書コーナーがあります。

大半は松本清張の作品が収納されているのですが、

この中に「埴谷雄高全集」が収録されていました。

非常に高価で、読まれた形跡も少ない全集ですが

何気なく読書コーナーに収録した記念館の関係者の慧眼に驚き

心の中で密かに喝采を叫び

時間の許す限り『不合理ゆえに吾信ず』と『死霊』の一部をパラ読みしてしまいました。

 

埴谷雄高松本清張と同い年で三島由紀夫より16歳年上ですが、三島由紀夫の文学を高く評価しており、また三島由紀夫埴谷雄高の文学を高く評価しています。

二人は対談(正しくは鼎談)したことがあり、

寡作の埴谷雄高が政治に対抗する文学の可能性·必要性を語ったのに対し、

多作の三島由紀夫は文学の限界・行動の優位性を主張していたように記憶しています。

 

松本清張三島由紀夫の関係は、全くダメだったようです。

1963年に、中央公論社

川端康成谷崎潤一郎三島由紀夫など7名を編集委員として招聘し

「日本の文学」全集の発刊を企画します。

第一回編集委員会で、松本清張が候補者に入っているのを見つけた三島由紀夫

松本清張はだめです。清張の作品には文体すらない」と言って大反対し、清張を押す川端康成と大論争になったそうです。

 

筋トレをして肉体改造をしたときの美輪明宏とのやり取りを聞くと

三島由紀夫の子供っぽさ(独り善がり)を感じます。

 

しかしながら、

三島由紀夫の作品が多くの人の心をとらえるのは

自衛隊での割腹自殺という行動ゆえなのか、作品そのものに内在する魅力なのか。

 

ちなみに管理人は後者の立場です。