「迎え虎」の紹介で始まった小倉の話。
最後は原爆の話になります。
犠牲者の大多数が戦闘員ではなく民間人という原子爆弾。
だから、脅迫でもあり抑止力にもなるという皮肉なパラドックス。
世界中でその恐ろしい被害を被った歴史を持つのは広島市と長崎市の2か所のみです。
1945年8月6日午前8時15分、リトルボーイが一瞬にして広島を廃墟に変えた。爆心地から半径1200m以内にいたほぼ全員の人が亡くなりました。
そして、1945年8月9日午前11時2分、ファットマンが一瞬にして長崎を廃墟に変えた。
20万人以上の人が亡くなり、その後も多くの方が火傷や放射線障害に苦しめられています。
アメリカで触れられることは少ないようですが、
長崎では、捕虜収容所にいたアメリカ兵捕虜8名も原爆の犠牲となったそうです。
量子力学の偉大な先駆者の一人であるデンマーク人のニールス・ボーア。
1939年4月25日にアメリカ物理学会で「ウラン235は核分裂をし易い」という説を発表しました。
ここに原子力利用の歴史が始ます。
母がユダヤ人のボーアは、第二次世界大戦が始まりナチスドイツによる欧州支配が広がる中、ユダヤ人迫害を逃れ1943年に英国に移りました。
イギリスやアメリカにおいて核分裂が兵器として研究開発されているのを知り、イギリスのチャーチル首相やアメリカのルーズベルト大統領に原子力の国際管理の必要性を訴えますが認められず、
1945年(昭和20年)は
日本の降伏により第二次世界大戦(太平洋戦争)が終了した年です。
この年、市井の人が何も知らないなか、
恐怖の選択が二転三転しながら進んでいきます。
4月27日に、原爆投下の候補地として日本の17都市がノミネートされました。
5月10日の第二回選定委員会では、京都、広島、横浜、小倉の4都市があげられました。
5月28日の第三回選定委員会では、京都、広島、新潟の3都市があげられました。
6月14日、京都が除外され、小倉、広島、新潟の3都市があげられました。
7月16日、アメリカ海軍重巡洋艦インディアナポリスが原子爆弾の部品を積んで、サンフランシスコ港を密かに出港しました。
7月25日、「原爆投下指令書」が発令され、「8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下」することになりました。
アメリカ軍重巡洋艦インディアナポリスが7月28日にテニアン島の基地に到着しました。
ウラン235は、別途ダグラスC45輸送機によりテニアン島に空輸され、テニアン島基地で秘密裏に原子爆弾が組み立てられました。
8月2日、アメリカ軍第20航空軍司令部は8月6日の攻撃を決定、投下地区は広島、予備候補地は小倉、長崎に決まりました。
そして、1945年(昭和20年)8月6日
世界で最初の原子爆弾が広島に投下されました。
8月8日、第20航空軍司令部は8月9日の第二次攻撃を決定します。
投下地区は小倉、予備候補地は長崎でした。
8月8日、マリアナ諸島基地を発進したB29爆撃機221機は八幡に45万発の焼夷弾をばら撒き、八幡の市月街地の1/5が焼失し約2900人が犠牲となりました。
この火災により、翌8月9日の小倉上空の視界が悪化したために、
2発目の原子爆弾は、小倉ではなく予備候補地の長崎に投下されました。
8月10日、アメリカ合衆国トルーマン大統領は「これ以降の原爆投下を中止する」との指令を出します。
数十万の非戦闘員の命を左右したのはこんな偶然で、しかも簡単に決められていたとは。。。
日本帝国軍でも陸軍・海軍それぞれで原爆の研究開発は進められていましたが、
当然極秘情報であり、広島、長崎に投下された爆弾が原子爆弾であることを国民に公表したのは8月11日のことでした。
新潟県では、広島、長崎への原爆投下の報を受け、
朝鮮半島との物資輸送の拠点港である新潟港があるにもかかわらず、
大規模な空襲を受けていなかった新潟市への原爆投下の可能性を危惧し
終戦の前々日の8月13日から
終戦の三日後の8月18日までの五日間
新潟市はさながらゴーストタウンの様相を示していたそうです。
それを杞憂というのか、英断と評価するのか。
コロナ感染に怯える現在の
感染症対策を講じる政治への評価に通じるものがあります。
多くの問題を内在しているとは言え
こうした記録を、嘘や隠蔽もなくきちんと保管しているアメリカの政治の見事さも。
追記します。
アメリカ大統領ジョン·F·ケネディの国連での演説の一部です。
「人類は核というダモクレスの剣の下で暮らしている。それは細い糸でつるされ、いつ何時にも事故か誤算か狂気により切れる可能性がある。」