場所は
≪#1≫ と同じJR四日市駅操車場
( 南側道路から撮影)
まるで阿弥陀籤の如く
分岐し、合流し、広がっていくレール
おはようございます。
昨日10月10日、
アクセス数が5000を越えました。
昨年の11月11日に本ブログを開設して
約一年。
継続できたのも
拙い写真と愛想の無い文章のブログを訪れ、
時には🌟マークをつけ、
時にはコメントを書き込んでくださった方々の
ご支援のお陰と感謝しております。
恐らく、ですが
5000番目の方は
昨日の20時前にアクセスしていただいた方だと思います。
きっと、いいことがあると思いますよ^^
次は11月11日までの継続を目指して
一周年記念を迎えたいと思っております。
はてなブログの中で、
見事な画像、引き込まれる文章、長く継続されているブログ
癒されるブログ、奮い立たせる内容のブログを見つけ
そのブログの読者となり
更新された記事を見ることで
常に勇気づけられています。
今後ともよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
本日の画像は、
愛知県新城市にある
鳳来寺山の1425段もある階段の山門の画像
はてしなき階段を登った先にある本堂(画面中段の少し右に見える小さな建物)
名古屋市内には、
過去に二回ほど紹介した「名古屋市美術館」
米国ボストン美術館の所蔵品を中心に展示する「名古屋ボストン美術館」
現在、改修中の「愛知県美術館」
江戸時代の美術品を所蔵する「徳川美術館」
その他にも「ヤマザキマザック美術館」等々がある。
もっと数多くの美術館が存在してもいいと思うのだが、
中部圏の人口からすれば、これくらいの数が限度なのか。。。
名古屋ボストン美術館が、5日後の10月8日(月)に閉館する。
その場所は、金山駅から徒歩1分。
殆ど雨に濡れずに行けるロケーション。
金山駅は、JR東海道線、JR中央線、、名鉄、名古屋市地下鉄が合流する
名古屋屈指のターミナル駅である。
名古屋では金山地区を「副都心」と呼んでいるが、
今回、名古屋ボストン美術館が閉館してしまうとかなり寂しくなるのではないかと
心配している。
名古屋ボストン美術館の開館は1999年4月だから
今年は開設から20年目。
米国ボストン美術館との交渉や開設してからの運営に努力された関係者の皆さん
ご苦労様でした。
最終展のテーマは
「ハピネス ~明日の幸せを求めて」
重ね重ね残念でならない。
沖縄から北海道まで日本を縦断した強烈な台風24号
皆さんの自宅や職場は大丈夫でしたか?
さて、先日話題にあげた横浜の続き。
洒落た都会、港町というイメージが強い横浜だが、
海とは無縁の山の中や
夜は人影が疎らになってしまうような鉄道の駅や
色街もある。
標題の野毛は「洒落た街」という範疇に入るのだろうか。
福富町とは大岡川で隔てられている。
店舗数は約500軒。
新宿2丁目やゴールデン街の雰囲気を思い出した。
六月の終わり、少し強い雨が降り出した日の午後、
野毛食べ物横丁の店で
開店する16時頃から飲み始める。
魚、肉、野菜を適当に注文し
最初のビールを飲んだ後は
店が集めている全国の日本酒を
順次飲んでいく。
酒に強い相方は一升瓶からグラスに注がれる日本酒を
次から次へと飲んでいく。
2~3時間も経っただろうか
席待ちの人達が出始める頃に
席を立つ。
雨だというのに客はどんどん増えていくようだ。
酔い覚ましに日ノ出町方向へブラブラと歩いていると
右手に、二階まで吹き抜けになっている不思議な店が目に入ってきた。
中に入ると、天井からブランコが下がっている。
右手には階段があって桟敷席のような雰囲気。
カウンターの中には、中性的雰囲気の女性が一人。
近々、アメリカで開催されるジャグリング大会に出場するという芸人の
渡米直前の貴重なショーがあるというので、
カウンターに座り、ウィスキーを飲みながら
結局、2クールも見てしまった。
ショーチャージは「おひねり」という大道芸人スタイル。
その店が ↓ こちら。
普段は、ジャズのライブをすることが多い店らしい。
桜木町・関内付近に来たときには
是非、行ってみて下さい。
↓ 横浜シリーズ
半田市の観光ガイドに分かり易い地図があったので
抜粋して掲載しておきます。
「ごんの秋まつり」という標題の半田市観光パンフに、
毎年、彼岸の中日のイベントとして「花嫁行列」があるとの記載があった。
地図の右中央、半田口駅の左に「岩滑八幡社」という神社がある。
この神社で挙式を挙げた新郎新婦が矢勝川の堤で「花嫁行列」をするとのこと。
14時半から挙式との発表だったので
15時過ぎから待つも、なかなか現れない。
↓ ようやく登場・・・赤い傘の辺り
堤の下では俄かカメラマンが列をなして待っていた
先頭は巫女さんが二人
花嫁を載せた人力車の車夫
人力車に乗った花嫁と付き添うように隣を歩く花婿
その後ろには(おそらく)親族の方々
赤い傘、彼岸花の赤に新婦の白無垢が鮮やか
↓ 新郎・新婦とも笑顔がとても素敵だ
↑ 堤の上の道路から一枚
おめでとうございます
お幸せに!
天気に恵まれて良かった。
半田市出身の有名人で新見南吉という児童文学作家がいて、
矢勝川流域を舞台に「ごんぎつね」という有名な童話を書いている。
彼岸花が咲いている期間は1~2週間程度。
今年は、7月から台風襲来が多く、9月も雨の日が多いので
天気予報を注視して行く時期を狙っていた。
この日は朝から陽が射し風も穏やかだったので
朝、慈雲寺にお邪魔した後、矢勝川に向かうことにした。
名古屋から矢勝川付近までは、公共交通機関でも車でも一時間ほど。
この時期の土日・祝日は、車の場合、渋滞と駐車場探しでかなり苦労する。
名鉄に乗って行くのがベストだと思う。
最寄の半田口駅から歩く距離も大した距離ではない。
↓ 2018年9月23日のダイヤで一例をあげれば・・・・
半田口で降りて
そこから15分ほど歩けば
鮮やかな彼岸花が見えてくる。
矢勝川沿いの彼岸花の歴史は約30年。
1990年(平成2年)から、小栗大造さんという方が一人で
矢勝川の堤防の草を刈り彼岸花の球根を植え始めた。
「『ごんぎつね』の舞台である矢勝川の堤というキャンバスを
彼岸花で真っ赤に染めたい」という気持ちから始めたのだそうだ。
やがて賛同する人が増え始め、
今ではその数300万本。
上の画像でお分かりいただけるかと思うが、
矢勝川は天井川なので、堤の土手は河川側と反対側の両側にある。
どちらかというと、河川の反対側の土手に植えられた彼岸花が見事だ。
↑ さわやかな秋の空と赤白の彼岸花とそれを愛でる人達が溢れていた
近くに寄って見れば
↓ 白い彼岸花
田んぼアートとその説明
看板によれば、「新見南吉の『でんでんむしのかなしみ』という童話がモチーフ
一人ぼっちの狐の「ごん」はいたずら狐
兵十が矢勝川で鰻を罠にかけて捕まえていた時
捕まえた鰻をごんが逃がしてしまう。
10日ほど経って兵十のお母さんが亡くなったことを知り
ごんは鰻を逃がしたことを深く後悔した
ごんはお詫びに毎晩山菜を密かに兵十のもとに届け始めるが
兵十はごんではなく神が与えてくれていると思っている
ある夜、ごんと出くわした兵十は鉄砲でごんを打ってしまう
届けられた山菜を見て
兵十はこれまでごんが届けてくれていたことを
初めて知る
名古屋の中心部である名古屋駅と栄駅の中間に位置し
近くには今年4月に建て替えられたばかりの「御園座」がある。
御園座は歌舞伎が演じられる名古屋で有数の劇場だ。
金曜の夜、小雨が降る中
地下鉄伏見駅から美術館に向かう
程なくして美術館に到着
こちらは隣接する名古屋市科学館
小雨降る白川公園のオブジェ
公園に隣接する洒落たレストラン
小雨に煙る久屋公園から見たテレビ塔
洒落た形状の歩道橋
以前にも掲載した栄オアシスの巨大な屋根とテレビ塔
今回のビュールレコレクション展が、
東京・福岡・名古屋と長期間にわたり
日本で開催することが出来たのは何故か。
日本で見ることが出来る最後のチャンスと言われたのは何故か。
エミール・ビュールレが1956年11月に66歳で死去した後、
ビュールレコレクション財団が設立された。
1960年4月からは
チューリヒの邸宅にてプライベート美術館として一般公開していた。
2008年にセザンヌの「赤いチョッキの少年」を始めとする4点が盗まれるという事件が起きたが、
幸運にも、その後、4点とも発見された。
しかし、
私立の美術館でのセキュリティの限界、遺族の相続税対策等々の理由により、
財団は2015年にプライベート美術館を閉館し、
ビュールレ・コレクションは
2020年に拡張工事が終了するチューリヒ美術館の新館に移されることになった。
その結果、
移設までの5年の間を活用して
最初にして最後と思われる
コレクションの海外での展覧会開催が実現した。
勿論、そこには、多くの方々の思いと努力と助力と人的関係があって
実現できたことは
言うまでも無かろう。
美術品の収集と道義的・法的責任は微妙で難しい問題だ
例えば
大英帝国はその昔、圧倒的な経済力・軍事力を駆使し
「略奪博物館」と揶揄されるほど世界中から美術品を集め
それを大英博物館で保管し展示している。
集めた貴重な美術品・歴史的記念物の数はなんと800万点。
世界各国から返還請求を受けながらも
「自国の美術品をどうするかは当該国の権利だろう」と言うのは簡単だが、
略奪先の現地では、
当該国がそうした美術品や歴史的記念物をキチンと保存できたかどうかというと
今でも怪しいものが多々ある。
アフガンでのタリバンによる仏像破壊、カンボジアでのクメールルージュによるアンコールワットに代表されるヒンズー教寺院の破壊等
その類の例は数多くある。
「世界遺産」という考え方が必要とされる所以だろう。
今回のビュールレ・コレクション展に接し、
印象派を中心とする見事な美術品を収集したビュールレの生涯を
初めて知った。
1890年にドイツで生まれ
アルベルト・ルートヴィヒ大学で文学・哲学・美術史を学び
30歳で銀行家の娘と結婚
その後、義父が有するスイスの工作機械会社再建のためチューリヒに移る。
そして、連合国とナチスの両方に武器を販売する武器商人として一層の財を成した。
1940年6月の利益が1600万円。
4年後の1944年の利益はなんと190億円に増えていた。
チューリヒの新居に飾る絵の購入を皮切りに
ビュールレは印象派を中心に名画を次々と購入していく。
その数633点。
1940年代に購入した約100点のうちの13点が
ナチスドイツがフランスのユダヤ人から略奪した美術品であるとして
裁判所から返還を命ぜられた。
また、ナチスへの武器売却の利益が美術品購入の財源になっているのも
否めない事実であろう。
今回、チケットに印刷されたルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)」も数奇な運命に翻弄された。
モデルのイレーヌ(1872-1963)はダンヴェール伯爵の長女で、描かれた当時は8歳。
19歳で結婚し、1男1女を授かる。
長男は第一次世界大戦にフランス軍パイロットとして参戦、25歳で撃墜され亡くなった。
長女は結婚して二人の子供が生まれ、この「可愛いイレーヌ」も彼女が所有していた。
ところが、1941年、ナチスドイツの手により「可愛いイレーヌ」は略奪され、
一家四人もユダヤ人一家であるとしてアウシュビッツ他の収容所に送られ
生きて戻ることは無かった。
略奪された「可愛いイレーヌ」は美術好きのナチスの元帥ゲーリングの下にあったらしい。
連合国軍の略奪美術品奪還部隊の手により、「可愛いイレーヌ」はベルリンで発見され、オーランジェリー美術館に展示されるも
1946年にイレーヌの手に戻される。
3年後の1949年、77才のイレーヌはこの絵を売りに出したところ
皮肉にも、ビュールレがこれを購入しコレクションに加えた。
ナチスへの武器売却で連合国のブラックリストに載せられたビュールレだが、
エミール・ビュールレが美術に対する審美眼と財力と保存に関する知識を持っていたからこそこの類稀なコレクションが形成された。
人の功罪についてコメントするのは
なかなか難しい。
ビュールレに「可愛いイレーヌ」を買う資格は無いと非難する声もある。
ナチスへの武器売却については、スイス政府の指示・承認なしには不可能であり
永世中立を維持するためのスイス政府の狡猾さの人身御供にされたとの説もある。
(参考にした資料)