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ビュールレ・コレクション展と名古屋市美術館と雨に煙る都市の夜景 (続々編)

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名古屋市美術館名古屋市科学館とともに

地下鉄伏見駅近くの白川公園の中にある。

 

名古屋の中心部である名古屋駅と栄駅の中間に位置し

近くには今年4月に建て替えられたばかりの「御園座」がある。

御園座は歌舞伎が演じられる名古屋で有数の劇場だ。

  

 

 

 

金曜の夜、小雨が降る中

 地下鉄伏見駅から美術館に向かう

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  程なくして美術館に到着

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 こちらは隣接する名古屋市科学館

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 小雨降る白川公園のオブジェ

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公園に隣接する洒落たレストラン

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 小雨に煙る久屋公園から見たテレビ塔

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 洒落た形状の歩道橋

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 以前にも掲載した栄オアシスの巨大な屋根とテレビ塔

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今回のビュールレコレクション展が、

東京・福岡・名古屋と長期間にわたり

日本で開催することが出来たのは何故か。

日本で見ることが出来る最後のチャンスと言われたのは何故か。

 

エミール・ビュールレが1956年11月に66歳で死去した後、

ビュールレコレクション財団が設立された。

1960年4月からは

チューリヒの邸宅にてプライベート美術館として一般公開していた。

 

2008年にセザンヌの「赤いチョッキの少年」を始めとする4点が盗まれるという事件が起きたが、

幸運にも、その後、4点とも発見された。

 

しかし、

私立の美術館でのセキュリティの限界、遺族の相続税対策等々の理由により、

財団は2015年にプライベート美術館を閉館し、

ビュールレ・コレクションは

2020年に拡張工事が終了するチューリヒ美術館の新館に移されることになった。

 

その結果、

移設までの5年の間を活用して

最初にして最後と思われる

コレクションの海外での展覧会開催が実現した。

 

勿論、そこには、多くの方々の思いと努力と助力と人的関係があって

実現できたことは

言うまでも無かろう。

 

 

 

 

美術品の収集と道義的・法的責任は微妙で難しい問題だ

 

例えば

大英帝国はその昔、圧倒的な経済力・軍事力を駆使し

「略奪博物館」と揶揄されるほど世界中から美術品を集め

それを大英博物館で保管し展示している。

集めた貴重な美術品・歴史的記念物の数はなんと800万点。

世界各国から返還請求を受けながらも

大英博物館は全て黙殺し保有し続けている。

 

「自国の美術品をどうするかは当該国の権利だろう」と言うのは簡単だが、

略奪先の現地では、

当該国がそうした美術品や歴史的記念物をキチンと保存できたかどうかというと

今でも怪しいものが多々ある。

アフガンでのタリバンによる仏像破壊、カンボジアでのクメールルージュによるアンコールワットに代表されるヒンズー教寺院の破壊等

その類の例は数多くある。

 「世界遺産」という考え方が必要とされる所以だろう。

 

 

今回のビュールレ・コレクション展に接し、

印象派を中心とする見事な美術品を収集したビュールレの生涯を

初めて知った。

 

1890年にドイツで生まれ

アルベルト・ルートヴィヒ大学で文学・哲学・美術史を学び

30歳で銀行家の娘と結婚

その後、義父が有するスイスの工作機械会社再建のためチューリヒに移る。

そして、連合国とナチスの両方に武器を販売する武器商人として一層の財を成した。

1940年6月の利益が1600万円。

4年後の1944年の利益はなんと190億円に増えていた。

 

チューリヒの新居に飾る絵の購入を皮切りに

ビュールレは印象派を中心に名画を次々と購入していく。

その数633点。

 

1940年代に購入した約100点のうちの13点が

ナチスドイツがフランスのユダヤ人から略奪した美術品であるとして

裁判所から返還を命ぜられた。

また、ナチスへの武器売却の利益が美術品購入の財源になっているのも

否めない事実であろう。

 

今回、チケットに印刷されたルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)」も数奇な運命に翻弄された。

モデルのイレーヌ(1872-1963)はダンヴェール伯爵の長女で、描かれた当時は8歳。

19歳で結婚し、1男1女を授かる。

長男は第一次世界大戦フランス軍パイロットとして参戦、25歳で撃墜され亡くなった。

長女は結婚して二人の子供が生まれ、この「可愛いイレーヌ」も彼女が所有していた。

ところが、1941年、ナチスドイツの手により「可愛いイレーヌ」は略奪され、

一家四人もユダヤ人一家であるとしてアウシュビッツ他の収容所に送られ

生きて戻ることは無かった。

略奪された「可愛いイレーヌ」は美術好きのナチスの元帥ゲーリングの下にあったらしい。

 

連合国軍の略奪美術品奪還部隊の手により、「可愛いイレーヌ」はベルリンで発見され、オーランジェリー美術館に展示されるも

1946年にイレーヌの手に戻される。

3年後の1949年、77才のイレーヌはこの絵を売りに出したところ

皮肉にも、ビュールレがこれを購入しコレクションに加えた。

 

 

 ナチスへの武器売却で連合国のブラックリストに載せられたビュールレだが、

エミール・ビュールレが美術に対する審美眼と財力と保存に関する知識を持っていたからこそこの類稀なコレクションが形成された。

 

人の功罪についてコメントするのは

なかなか難しい。 

ビュールレに「可愛いイレーヌ」を買う資格は無いと非難する声もある。

ナチスへの武器売却については、スイス政府の指示・承認なしには不可能であり

永世中立を維持するためのスイス政府の狡猾さの人身御供にされたとの説もある。

 

 

(参考にした資料)

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 - Wikipedia

www.tokyo-np.co.jp

hokanko.mond.jp

piropurin.com