昨日、掲載した#「野尻森林鉄道」#『木曽川橋』の画像を追加して掲載します。
橋げたは廃線から56年間も放置されていたとは思えないほどシッカリしているように見えますが、さすがに木製枕木は朽ち果てています。
木曽川橋について調べてみると
林業と森林鉄道の栄枯盛衰の歴史に隠された幾つもの「不思議」に驚かされます。
土木学会の論文のリストにこの橋が載っていました。
「廃線 橋長134.6m 単線下路曲弦プラットトラス 5径間 最大支間長61m
(「大正・昭和前期における鋼鉄道橋の発達とその現況(小西純一・西野保行・中川浩一)」
「日本橋梁」は現在「オリエンタル白石㈱」の子会社になっていますが、ホームページによれば設立は大正12年(1919年)となっています。
旅客ではなく貨物輸送がメインの鉄道だとしても、
設立から僅か2年の会社に製作を依頼し、設立後2年の会社がこれだけの構造物を完成させたことに驚きます。
林野庁のホームページを訪ね「森林鉄道」で検索しました。
官営森林鉄道は最盛期には、1251路線、総延長8928kmあったそうです。
現在、営業距離が最も長い鉄道会社はJR東日本ですが
その営業総距離は7402kmです(2021年4月)から
それよりも長かったことになります。
日本で最初の官営森林鉄道は、
これから訪ねる阿寺渓谷に作られた#「阿寺軽便鉄道」だそうです。
明治34年(1901年)に、#「宮内省(当時)」所管の#「御料林」に敷設されたとあります。
阿寺川に沿って「阿寺軽便鉄道」の幾つかの遺構が残されていました。
興味が無い方には退屈な話が続きますが、
もう少しお付き合いください。
木曽の森林は、#「伊勢神宮」が20年ごとに実施している#「式年遷宮」の木材に使われています。
一時途絶えた時期もあったようですが、現在も20年ごとに実施されています。
使用するのは、太くて長い「樹齢200~300年の国産のヒノキ」およそ1万本。
遷宮に使われるヒノキの調達先である#「御杣山(みそまやま)」は、
当初は伊勢神宮の近くの山でしたが、これだけの本数を20年ごとに確保するのは難しく
江戸時代の西暦1700年代頃からは木曽谷が「御杣山」になりました。
式年遷宮の開始は、#「御杣始祭(みそまはじめさい)」という儀式をともなう伐採で始まり、その後8年の歳月をかけ新しい社が完成します。
阿寺渓谷付近を含む木曽谷一帯は、江戸時代は尾張徳川藩の藩有林で
ヒノキをはじめとする#「木曽五木」が計画的に植林されました。
鷹の巣を守り鷹を育成するために住民の立入りを厳重に禁止した#「巣山」とともに
ヒノキの保護のために住民立ち入りを禁止する#「留山」を設定していたそうです。
立入りや盗伐に対して、#「木一本、首一つ」という厳しい罰則が下されたそうです。
愛知県瀬戸市の#「岩屋堂公園」には#「岩巣山」#「元岩巣山」がありますが、これらの山も鷹の巣が保護された山だったのでしょうか。
明治時代になり、木曽谷の森林は尾張徳川藩から国の所有する官有林に移ります。
明治22年(1889年)には阿寺渓谷を含めた木曽谷の森林は皇室の財産となり
#「御料林」となります。
お隣の木曽町には「御料林」を管理する#「宮内省帝室林野局木曽支局」の建物が残っています。
江戸時代においても明治時代においても、
木材がどれほど貴重な財産であったかが類推できます。
植林された木曽谷のヒノキは、計画的に伐採され
木曽川の流れを利用して岐阜県八百津町の#「錦織網場(あば)」まで一本ずつの単位で運ばれました。
その木材運搬方法は#「木曽式伐木運材法」と呼ばれていました。
「錦織網場」に集積される木材の本数は年間30万本を超えるほどだったそうです。
木曽谷の木材は#「錦織網場」で筏に組まれ、
一つの筏に三人の筏仕が乗って名古屋白鳥の貯木場や三重県桑名まで運んでいたそうです。
↑ 木曽川を流されてきた材木で覆いつくされた
昔の#「錦織網場」の写真が載っています。