「諸戸氏庭園」と 六華苑」の位置関係は以下の通りで、
画面右側の揖斐川右岸に隣接しており
画面右下に「七里の渡し跡」が位置している。
↓ 画面左側の日本家屋から右側の洋館へ移動すると
景色が一変する。
画像の合間に、凄腕の諸戸清六さんについて
駆け足で見ていこう。
諸戸清六さんは、初代と2代のお二人の功績が知られている。
先ず、初代の清六さんから。
時代を江戸時代末期まで遡る。
伊勢の国桑名郡木曽岬村の大庄屋の娘みかと養子縁組をした清九郎は
塩問屋の商売を始めたものの失敗し、全てを捨てて
1847年(弘化4年)桑名へ移住した。
息子の民次郎は清六と改名し18歳で家督を継ぐ。
(家を潰した父「清九郎」の名前をひっくり返し、「清郎九」→「清六」と変えたという話である)
清六さんが受け継いだ財産は、20石積の船1隻と僅かな衣類と布団のみ。
借金の額は千両以上。(今の貨幣価値に換算すると1億3千万円以上)
(一説には二千両とも)
この当時、
日本では、1860年3月24日(安政7年3月3日)大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され
激動の時代であった。
家督を継いだ清六さんは、
1000両以上の借金の返済先に「無利子10ヶ年返済」を頼み込み
寝る間も惜しんで米の仲買に励み
なんと僅か2年で全額を返済してしまう。
時は1866年。
この年に薩長同盟が成立し
翌1867年11月9日(慶応3年10月14日)に大政奉還、
1868年10月23日(明治元年9月8日)、明治時代が始まった。
初代諸戸清六さんは、明治政府や財界の有力者との繋がりを広げ
米の仲買をメインとして莫大な財を成す。
諸戸精六は、ボランティア・寄付の心意気が豊かだったようで、
桑名で「諸戸水道」と呼ばれた水道施設(全国で7番目に出来た)や消火設備を無償で提供したそうである。
また、時代を先取りして、1880年代半ばから土地を購入し始める。
恵比寿、渋谷から世田谷にかけて、30万坪の住宅地を購入し
「渋谷から世田谷まで他人の土地を通ることなく行くことが出来た」という逸話があるほどだ。
そして、日本で有数の山林王となっていく。
初代諸戸精六さんが、1884年(明治17年)に購入したのが「諸戸氏庭園」。
この庭園は、室町時代に「江の奥殿」と呼ばれた庭と建物が作られていて
江戸時代初期の1686年に、山田彦左衛門という桑名藩の御用商人が購入し、庭園を整備したものである。
今は財団法人諸戸会が管理をされている。
受付でお聞きしたところ、三人の庭師さんがいて、
一年間を通しほぼ毎日2人の庭師さんが手入れをされているとお聞きした。
豪邸と呼ばれる家や大きな庭は
金持ちでなければ購入できないのは当然だが、
金持ちであり続けないと維持できない。
続いて、二代目清六さんが発注した「六華苑」について。
1905年(明治39年)に初代清六さんが死去された。
跡を継いだのは、二男の精太さんと四男の清吾さん。
精太さんは「諸戸宗家(西諸戸家)」
清吾さんは「二代目清六」を名乗って「諸戸本家(東諸戸家)」
と称するようになる。
六華苑洋館部の設計を担当したのはジョサイア・コンドルというイギリス人建築家。
1877年(明治10年)に明治政府から招かれて来日し
弱冠23歳の二代目清六さんが、新居を建てるにあたり
建築界重鎮であるコンドルさんに設計を依頼できたのは
大隈重信さんや三菱の岩崎家との交流があったからだと言われている。
六華苑は、1911年(明治44年)に設計に着手し、
1913年(大正2年)に完成している。
完成の翌年1914年、サラエボ事件を引き鉄に第一次世界大戦が勃発する。
現在、放送中のNHKの大河ドラマ「いだてん」の中で
生田斗真さんが演じる三島弥彦の千駄ヶ谷にあったという豪邸のロケ地が
この「六華邸」である。
↓ 平成9年に友好都市提携の埼玉県行田市から寄贈された「古代蓮」
↑ 公式ホームページによれば、古代蓮の花が開き始めたそうだ。
古代蓮は、早朝に花が開き昼過ぎには閉じてしまうらしい。
【参考にした資料】