岩村城跡と明知鉄道≪#番外編2≫ ― 実践女学園の創設者「下村歌子女史 」と「おんな城主」―

岩村城跡への登山口に

「下村歌子女史勉学所」という建物が紹介されています。

 

f:id:martintan:20210810082154j:plain

f:id:martintan:20210810082100j:plain

f:id:martintan:20210810082128j:plain

f:id:martintan:20210810114544j:plain

下田歌子さん。

調べてみるとなかなか興味深い方です。

 

凡人ではありません。

最終学歴はなんと英国オックスフォード大学です。

私立実践女学校・女子工芸学校(今の「 実践女子学園」)を創設し

初代校長に就任された方だそうです。

 

写真を見るとなかなか奇麗な方です。

明治時代の多くの元老と懇意で、

学習院の教員時代には「軍人乃木大将と対立した」という骨のある話も出てきます。 

「出る杭は打たれる」の典型でしょうか。

「明治の紫式部」と呼ばれる一方で、『妖婦下田歌子』なんて本も出版されています。

 

 明智岩村の地では、

世の中をリードする女性が現れやすいのかもしれません。

#岩村醸造株式会社の代名詞「おんな城主」だってそうです。

 

#「おんな城主」というと、2017年に放送された

柴咲コウさん主演のNHK大河ドラマ#「おんな城主 直虎」を

思い浮かべる方が多いと思いますが、

同時期に活躍した岩村城の#「おんな城主 おつや」さんも

大変立派で気概溢れる方だったようです。

 

 

織田信長の叔母「おつや」さん。

岩村城主「遠山景任」が病死し、

養子に迎えた織田信長の五男#「御坊丸」がその跡を継ぐことになりました。

しかし、御坊丸はまだ幼く、

実質的には養母の女城主「おつや」さんが切盛りしたしたそうです。

 

おつやさんは、この#岩村城で2回も籠城をしています。

 

一回目は、1572年に

武田信玄の24将の一人「秋山虎繁」に攻められたとき、

幼い「御坊丸」に代り軍勢を率い、

信長の援軍を待ち、3か月間にわたり岩村城で籠城しました。

信長の岩村城入場の十年前の出来事です。

 

3か月が経過し、食料も水も尽き、

信長の援軍も直ぐには期待できない状況のなか

「おつや」さんは、降伏、無血開城を申し出ます。

敵将からの条件は、

「御坊丸」を武田信玄に人質として差し出すこと、

そしておつやさんが敵将「秋山虎繁」と結婚することでした。

「おつや」さんはその条件をのみ、無血開城を実現しました。

 

その後、おつやさんは虎繁とともに城下の復興に努めます。

 

翌年元亀4年(1573年)4月12日、甲斐源氏武田家を飛躍的に拡大させた武田信玄が死去します。

岩村城籠城、無血開城から3年が経過した天正3年(1595年)、

長篠の戦い」がおこり、織田と武田の力関係が大きく変わります。

 

武田側の城となっていた岩村城も再び戦火に飲み込まれていきます。

織田信長の嫡男「織田信忠」が岩村城を責め立てます。

秋山虎繁とおつやさんは、再び岩村城に籠城します。

今回の籠城は6か月に及んだそうですが、武田の援軍は期待できませんでした。

 

織田側からの、「領民と虎繁、おつやの命は守る」という条件を受け入れ

降伏します。

しかし、織田信長はこの降伏条件を認めず

虎繁とおつやは磔刑にて命を奪われます。

酷い話ですが、同様の話は他にもたくさんあります。

戦国時代の約束とはこんな程度だったのでしょう。

 

 7年後の天正10年3月11日(1582年4月3日)、

武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が自害し

信長はこの岩村城に入城しました。

 

この当時、

「おつや」さんの岩村城とおんな城主「直虎」の井伊(浜松方面)とを結ぶ道があったようです。

明知鉄道は、恵那から南に向かい明智駅が終点となっていますが

当初の構想は、この道に沿うがごとく

岩村と浜松を結ぶ遠大な路線が計画されていました。

それが、大正11年(1922年)の改正鉄道敷設法別表63号で掲げられた「遠美線」です。

遠州」と「美濃」を結ぶ鉄道路線です。

 

一部の人にとってのみ興味深い話でしょうから

これについては、機会があれば触れてみたいと思います。