小さな旅、美しい風景、写真 そして温泉と銭湯

"Japan, short trips and landscapes" "Japon,

小さな公園にて ― 桜咲く11000アクセス ―

 

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 (住宅地の小さな公園に咲く桜)

 

「花冷え」

桜の開花宣言の後に気温が下がり始めた為だろうか

開花が広がる速度が遅い。

今年は、入学式に桜が七分咲きから満開という

状況が期待できそうだ。

 

そんな中、寒さをものともせず凛と咲く桜を

カメラに収めてみた。

 

 

さて、

今週、1万1千アクセスに到達。

ひと月のアクセス数が1000前後のペースになってきた。

訪問者の皆さんに感謝、感謝である。

 

行ってみたい場所

見てみたい景色が

まだまだたくさんある。

 

掲載し損ねている画像も幾つか残っている。

キーファーの「シベリアの王女」の紹介記事も掲載したい。

 

今後も、

焦ることなく楽しみながら

小さな旅を続けていきたい。

皆様にはご支援のほどよろしくお願い致します。

 

 

 

 

レールの行き先は?≪#25≫ 「謎多き路線」 ―分離してしまうのか ―

 

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  (城北線を走る列車の車窓から撮影)

 

左のレールは下方向に、右のレールは上方向に

行先を違え、分かれていく

 

都市部を走る謎に包まれたローカル線

 

 

JR東海道本線枇杷島駅から中央線の勝川駅付近を結ぶ「城北線

建設したのは「鉄道建設公団(当時)」

所有するのは「東海旅客鉄道株式会社」

運営するのは「株式会社東海交通事業

 

なんてことを、管理人は全く知らなかった。

 

 

都市部にあって、

全線連続立体の高架橋で踏切は一か所も無く

全線複線でロングレールが敷設されていながら

 

電化されておらず

ワンマンの気動列車1両のみの運転で

交通系ICカードも使えない。

6駅全てが無人駅である。

枇杷島駅の先は東海道本線に接続しているが

勝川駅の先は高架部も線路も途切れていて全くの「終着駅」となっている。

 

 

名古屋からJR東海道本線の各駅停車に乗って

岐阜方面に向かうと、最初の駅が「枇杷島びわじま)」

この枇杷島城北線の起点となる。

 

城北線の総延長は11.2km

城北線の六つの駅は、

枇杷島びわじま)

尾張星の宮(おわりほしのみや)

小田井(おたい)

比良(ひら)

味美(あじよし)

勝川(かちがわ)。

 

この間に、

JR東海道線、(枇杷島駅

名鉄犬山線、(上小田井駅

名鉄小牧線、(味美駅)と交差し

JR中央線 (勝川駅)とも近接しているのだが

枇杷島駅を除き、雨に濡れずに乗換えできる駅は一つもない。

媚びるところが全く無い。

 

上の画像の上下に分かれた線路は

現実は、その先で元に戻り平行して走るようになる。

上下に分かれる理由がわからない。

 

 

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  (外から見た終点「勝川駅」への階段。 無人駅なので改札口がない)
 

 

 

 謎解きの鍵は、複雑な権利関係とその当時の鉄道状況にあるようだ。

 

第一に、城北線の当初計画の目的は旅客輸送ではなく貨物輸送であったこと 

 

1962年(昭和37年)、貨物輸送を主たる目的として

国鉄岡多線(岡崎ー多治見)とともに

国鉄瀬戸線(瀬戸~高蔵寺、勝川~稲沢)が計画された。

1976年(昭和51年)、鉄道建設公団(当時)により勝川~稲沢間着工。

 

第二に、着工したものの、国鉄改革の影響で、国鉄としては完成・開通させることが出来なくなったこと。

 

岡多線は、国鉄ではなく愛知県を中心とする三セクの「愛知環状鉄道」を立ち上げ

岡崎~豊田~高蔵寺が1987年(昭和62年)に開通した。

一方、国鉄瀬戸線は勝川~小田井間と

連絡線である小田井~枇杷島の間が

完成間際の状態のまま凍結されていた。

 

第三に、国鉄民営化後、瀬戸線JR東海の所有となり、JR東海

鉄道建設公団の権利・義務を引き継いだ「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」に

ひたすら建設費を分割で支払っていること。

 

そこで、負担している建設費の一部でも回収すべく

ミニマムコストでの運用を計画。

JR東海(株)の子会社である「株式会社東海交通事業」に第二種免許を取得させ

勝川~稲沢ではなく勝川~枇杷島間を旅客鉄道として開通したと思われる。

 

しかし、鉄道運輸機構への建設費延払い(賃料)が完了するまでは実質赤字続きだ。

 

延払い完了時期が近づくまでは、

中央線勝川駅接続のための高架部延長工事や

交差する他の路線の駅との接続工事や電化工事は、

赤字幅を拡大させるがゆえに実現困難だろう。

 

 

冒頭の写真は、勝川に向かう列車の後ろから枇杷島方向を写したものだが、

当初計画の稲沢に向かう本線と枇杷島に向かう連絡線の分離部が

こうした形で残っている。

左の線路が右の線路の下を通って稲沢に向かう計画だったというのが

左右の線路が上下に分かれている理由である。

現在は、その先で再び並行し枇杷島へと向かっている。

  

 

先ほど、城北線は全駅が無人駅と書いたが、

JR東海の幾つかの駅業務は「株式会社東海交通事業」が受託している。

枇杷島駅の改札業務は

東海交通事業の社員がJR東海の社員として行っているという

これまた複雑な形態になっているらしい。

 

 

最後に、1両単体で走るワンマンのディーゼル列車の画像を掲載します。

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 (列車内の様子)

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 城北線の歴史については、以下のサイトを参考にさせていただきました。

wv21.com

 

 

 

 

 

 

三大英傑 《#3》 ― 徳川家康 ―

第三弾、最後は徳川家康の「優先席では弱者に席を譲ろう」である。

「ゆずるなら 迷わずゆずろう 優先席」

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後ろの掛け軸には

「ぜったゃあ ゆずったれ せんわ」という言葉があり

「でぇらぁ 若かったもんで かんわ」という家康の反省の言葉がある。

 

画面左手では「丸くなったねホトトギス」という言葉が書き添えられている。

 

「ぜったゃあ」は「絶対」、

「せんわ」は「しない」

「でぇらぁ」は「すごく」とか「大変」という意味であろうが、

「かんわ」はどう捉えたらいいのだろうか?

 

名古屋弁に詳しい方からのコメントをいただけるとありがたいですね。

 

名古屋市営地下鉄の三大英傑が登場する公共広告はいかがでしたか?

 

この徳川家康のケースで、

優先席はもちろん一般の席でも

お年寄りや弱者に席を譲った時に

相手から「いえ、大丈夫です」とか「結構です」と言われたり

極端なケースでは「年寄扱いするのか!」と言われたりすると

それ以降、席を譲ることを躊躇するようになる可能性がある。

 

上の「ぜったゃあ ゆずったれ せんわ」という気持ちは

そういう経験をした人に間々見られる。

 

座席に座っていて、弱者やお年寄りが近づいてきたら

「どうぞ」と言って立ち上がり

その結果がどうであれ、その席付近から遠ざかってしまえば

相手の対応を気にしなくても良くなる。

 

考え方ややり方はどうであれ

「弱者に譲る」という気持ちを

持つようにしたいと思う。

レールの行き先は? ≪#24≫「都会の秘境駅」 ― 全てはここから始まる ―

 

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 (城北線勝川駅ホームから撮影)

 

画面奥に映る列車の向こう側に高架部はない。

全てはそこで終わり

全てはここから始まる。

 

 

 

 

 

 

 

花舞い  ― 舞い散る梅の花びら ―

桜の開花宣言が聞こえ始めた。

暖かい日が続けば、

今週末には桜の見頃が到来するかもしれない。

 

そして

2月末ないし3月上旬から咲き始めた梅は

満開の時期を過ぎ散り始めている。

「花舞い」

 

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 (いなべ市農業公園梅林公園にて)

 

三大英傑 《#2》 ― 羽柴秀吉 ―

 

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第二弾は、「歩きながらのスマートホンをなくそう」とするポスターで、

今回の主役は羽柴秀吉

 

秀吉が持つスマートホンで、

「ケキョケキョ」という着信音とともに、

茶々(淀君)からの着信という画面表示が出る。

横にいる正室の「北の政所」は「(着信は)誰からかなも?」と

秀吉に尋ねる。

秀吉は「ところかまわずはダチかんわぁ」という言葉とともに

困ったような嬉しそうな顔をする。

茶々(淀君)の悪戯っぽい顔つきも秀逸である。

 

この寸劇は

「歩きスマホをなくそう」というよりは「列車内では電源を切るかマナ―モードに」

という趣旨だろう。

 

「ダチかんわ」という名古屋弁は今ではほとんど死語になっていて、

50歳前後の人が「親の世代で使っていたような記憶がある」という程度だ。

ちなみに「ダメだよ」とか「役に立たない」という意味である。

北の政所の言葉の最後についている「なも」も

「上品な言葉遣い」だが今では殆ど使われない名古屋弁である。

 

三大英傑 《#1》 ― 織田信長 ―

名古屋市地下鉄の駅で興味深い公共広告を目にしたので

三回にわたり紹介します。

「受けてるのは管理人だけだろう!」という非難も予想されるので、

「独り言」というカテゴリーに分類しておきます。

 

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「混むならば まわりに着合うかええ

目的としては、「混雑時に背中にリュックサックを背負っていると周囲の人に迷惑をかける恐れがあるから、やめましょう」という

至極もっともな内容であるが、

 

「たゃーぎゃーに しなかんぞ」

「たぁーけモンがー」という信長の文句と

電車の吊皮を持つ背中に箱を背負った家来と

信長の右側、目を伏せて太刀をもった森蘭丸と思しき人物の「らしさ」

に惹きつけられてしまった。

 

 

ある居酒屋で、

多治見生れの名古屋在住の人、

可児生れで名古屋在住の人、

東京育ちで転勤前のオフィスに名古屋出身の同僚がいたという現在名古屋単身赴任者と管理人の四人で

意見交換会を実施した。

(多治見出身、可児出身の名古屋人であるから、由緒正しい名古屋人とは言えないという点は目をつぶっていただきたい^^)

 

「たゃぎゃー」は「程々に」とか「いい加減に」という意味であり

「たいがいに せなかんよ」という使われ方が多いが、

それもかなりの年配者専用で、現在は死語に近い存在になっているようだ。

「たぁーけモン」は「たわけ」の名古屋弁的発音。

東京の人にとって「たぁーけ」は強烈な罵声と受け取るようだが、

名古屋関係者は「程度には幅がある」と思っている。

信長の「たぁーけモンがー」といった場合は強烈な叱責と受け止めるのが正解だ。

右上の「なんだかやばいよホトトギス」という解説の通りで、命がかかるレベルだろう。

 

 

(注)本記事は下の「名古屋弁辞典」を参考にさせてもらいました。

nagoyaben.com

 

レールの行き先は? ≪#23≫  ― 都心の高架橋 ―

 

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 (東京駅在来線ホーム端から撮影)

 

上野東京ラインの開通。

都市部の

既存の連続立体の高架橋の上に

後から連続高架橋を建設する。

距離は短くても

必要とされる技術レベルは非常に高い。

 

完成後は、東北線常磐線からの列車が

上野駅を越えて

東京駅やそれより先まで

行くようになった。

 

「レールの行き先は?」

 

 

 

表裏から見た「摩天楼」と数奇な運命の橋 ― 向野橋 ―

今や「摩天楼」という言葉は死語になってしまったのだろうか。

東京や大阪では摩天楼が点在しているのに対し

 名古屋の摩天楼は名古屋駅前に集中している。

 

どちらを表、どちらを裏と呼ぶかは

人によって違っていて当然だが、

ここでは摩天楼が建ち並ぶ側(栄に向かった桜通口)を表と呼ぶことにします。

しかしながら、八年後のリニア新幹線が開通する頃には

太閤口側にも新しい摩天楼が建ち並び

表裏を反対に呼ぶことになっているかもしれない。

 

「栄」は、名古屋駅の東側4kmほど離れたところに位置する。

以前は名古屋で最大の繁華街だった栄も、

名古屋駅前に摩天楼が建ち始めてからその地位を奪われた感がある。

今は巻き返しを着々と狙っているところだろう。

 

さて、その「栄」にある「愛知芸術文化センタービル」

11階に設置された展望回廊は、

遅い時間まで開放されており

名古屋駅の摩天楼達の表の顔を撮るにはなかなか優れた場所である。

 

 

《摩天楼の表の顔》 ― 東方から西方を見る ― 

  ↓ 薄暮の「栄オアシス21」「久屋大通公園の緑」と遠景の名古屋駅摩天楼

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 ↓ 大きな雲を背景にした名古屋駅摩天楼の一群

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《摩天楼の裏の顔》 ―西方から東方を見る―

別の日の早朝、夜明け前に駅裏から摩天楼を撮った。

 

 

  ↓ 名古屋高速臨海鉄道あおなみ線ささしまライブ駅連絡歩道橋」から見た摩天楼

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 ↓ 朝日に照らされた摩天楼

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 ↓ 土木遺産「向野橋」から撮影

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 ↓ 「向野橋」土木遺産認定の銘板

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「向野橋」の歴史は非常に興味深い。

第一に、明治生まれで年齢が112歳以上の長寿橋であること。

第二に、生れた場所がアメリカ合衆国であること。

第三に、最初は京都の保津川に架かっていた鉄道橋であること。

第四に、大きな事故に遭遇していること(撤去の原因の一つかもしれない)。

第五に、撤去された後、名古屋で数多くの線路を跨ぐ歩道橋(当初は道路橋)として再生されたこと。

最後に、橋梁としての本来の機能(河川や鉄道により分断された地点を結ぶ構造物)だけでなく、鉄道と摩天楼の撮影地としても活躍していること。

 

Wikiによると

向野橋は、1906年明治39年)に京都の保津川に架設された鉄道橋で、

1930年(昭和5年)に現在地に移設されたもの。

アメリカ合衆国で製作された橋で、当時は日本最長のアーチ橋であった。

昭和3年保津川橋が新橋に架け替えられ、旧橋は現在の地に移設され、名前を「向野橋」と変えて生まれ替った。

2016年に土木学会で土木遺産に選奨されている。

現在は、歩行者・自転車専用道となっているため、絶好の撮影地点になっている。

この日も通過する列車のビデオ撮影をしている方と遭遇した。

 

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  ↓ 夜明け前に待機する列車達と「向野橋」

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     (ささしまライブ駅連絡歩道橋から撮影)


《参考に》

京都府立京都学・歴彩館の「京の記憶」という資料集に、「保津峡下り」という表題の写真があり、明治時代の保津川橋の画像が残されている。

個別のリンクは出来ないようなので、京都府のホームページのリンクを貼っておきます。

www.pref.kyoto.jp

 

「向野橋」にその面影はきっちりと再生されている

 

 

 

 ↓ 「向野橋」が「保津峡橋」時代に遭遇した鉄道事故の記事はこちら

www.lib.kobe-u.ac.jp

 

 

 

 

 

レールの行き先は? ≪#22≫  ―分岐が重なり合って―

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  (衣浦臨海鉄道半田線踏切から超望遠で撮影)

 

 

まるで「阿弥陀籤」の如く・・・

 

実は、当初の「あみだくじ」は今とは全く異なる形状だったようだ。

 

最初のあみだくじの形状は、自転車のスポークのような放射状で

その形が阿弥陀如来の光背に似ていたことから「あみだくじ」と呼ばれるようになり、

その後、江戸時代の頃には、放射状ではなく

幾本かの縦線に、ランダムに横線を書き加える形状に変わっていったそうだ。

阿弥陀如来が当たりを決めるクジ」ではないようだ。