各秘境駅のホームや周辺には
色とりどりの花が咲いていました。
2020年11月13日(金)から
発表記事によれば、
豊橋駅を9時50分に出た臨時急行は
今回訪問した6つの秘境駅の全てに停車します。
秋の飯田線、秘境の旅路を楽しむのは如何でしょうか?
(内容については、必ずJR東海の発表または駅窓口でご確認下さい)
では、今回の旅で出会った花たちを掲載します。
飯田線の歴史には幾つかの大きな転換点と
それを支えた多くの人の大変な努力があります。
豊橋鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気軌道という4つの民間鉄道会社です。
豊橋鉄道→伊那電気軌道→鳳来寺鉄道→三信鉄道の順に着工されました。
1987年(明治30年)、飯田線最初の区間である豊橋駅~豊川駅間が開通。
1900年(明治33年)、豊川駅~大海駅間が開通し、豊橋鉄道区間の全線が開通しました。
続いて、長野県側から
【伊那電気軌道区間】
1909年(明治42年)、辰野駅~松島駅(現在の伊那松島駅)が開通
1927年(昭和2年)、18年の年月をかけて辰野駅~天竜峡駅の全線が開通
残された三河川合駅から天竜峡駅の間(67km)を建設し運行したのは
電力会社、鉄道会社の出資により設立された三信鉄道。
この区間では、トンネルが171か所(31km)橋梁97か所(4km)と半分以上が構造物であり、それだけでも建設の困難さがわかります。
【三信鉄道区間】
現地測量を実施したのは、アイヌ民族の天才測量技師「川村カ子ト(かねと)」が率いる10人のアイヌ人測量隊。1926年に開始し1929年に全工区の測量を終えました。
当時、彼らでなくては出来ないほどの難工事だったようです。
ところが、川村カ子トは民族差別により殺されそうになったこともあったそうです。
工事は3期にわたって計12工区が施工されました。
一期は、北線5工区の内天竜峡駅側の2工区で、
1926年(昭和元年)に着工され、
1932年(昭和7年)に中部天竜駅から門島駅までの区間が開通。
二期は、南線7工区の内三河川合駅側の4工区で、
1930年(昭和5年)に着工され、
1934年(昭和9年)に三河川合駅から佐久間駅(現在の中部天竜駅)までが開通。
三期は、北線の残り3工区と南線の残り3工区の計6工区で最も難しい区間です。
中央構造線という脆い地質、急峻な山あい、資材・機材・食料の輸送の困難さに
加え三信鉄道の脆弱な資金力を危惧され、一期・二期工事を施工した建設会社から請負を拒絶されています。
そして、なんと一期・二期施工で2工区を請負った飛島組の工事部長の一人熊谷三太郎が一個人として三信鉄道と請負工事契約を締結しました。
1934年(昭和9年)に着工されたが、工事代金の不払い、賃金の不払い、資材・食料の遅れ、多発する事故、犠牲者の増加、朝鮮人労働者の脱走等に工期内の完成が危ぶまれる状況でした。
数々の困難を乗り越え、1937年(昭和12年)に三河川合駅~天竜峡駅の工事が完成し、豊橋から辰野まで全線が開通しました。
工期内の完成により国からの補償金が支払われ、熊谷三太郎も莫大な資金を手にするとともに建設業者として高い評価を得ることが出来たそうです。
それをもとに、翌1938年、熊谷三太郎は株式会社熊谷組を設立しました。
建設会社の工事部長が個人でこれだけの規模と困難さを有する工事を請負うなんて、驚愕を通り越した話です。
決して奇麗ごとだけではないでしょうが・・・
「熊谷さん、あんた男だねえ・・・」
【戦時下での国有化】
全線開通から6年後の1943年(昭和18年)、太平洋戦争のさ中、
豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道の鉄道路線は国有化された。
国有化(国への売却)の対価は、現金ではなく戦争国債だった。
戦時中は換金することが出来ず、戦後はハイパーインフレになり
国債を受け取った私鉄4社の出資者たちの手もとには何も残らなかったようです。
1000兆円ほどの今の日本の赤字国債は大丈夫でしょうかね。
【佐久間ダム建設による路線の付替え】
堤高155.5mの佐久間ダムは、当時日本一、世界第7位の巨大ダムです。
1953年(昭和28年)に着工し、
僅か3年という驚異的な短工期で1956年(昭和31年)に完成しました。
通常、ダム工事は着工から完成まで10年程度を要します。
工事着工にともない1955年(昭和30年)に
三信鉄道時代の天龍川沿いから水窪川沿いに付替えられ、
豊根口駅、天竜山室駅、白神駅が廃止され
佐久間ダムにより生まれた佐久間湖の貯水量は
諏訪湖の約4倍という巨大な量です。
渇水期には、水没した旧飯田線のトンネルが水面上に姿を現すこともあるそうです。
【災害と事故】
2020年も豪雨による土砂崩れで、2か月半ほど一部区間が不通になっていました。
中央構造線と急峻な山の合間を暴れ川の天竜川に沿って走る飯田線は
これまでも土砂崩れによる大事故が頻発しています。
1951年(昭和26年)には、集中豪雨で浦河駅~佐久間駅が不通となり
更には代行輸送をしていたバスが天竜川に転落し28名の方が死亡。
電車が石に乗り上げて脱線し天竜川に転落し、死者2名重軽症27名の大事故。
1957年(昭和32年)、大嵐駅~小和田駅の第一西山トンネルと高神澤橋梁の一部が地滑りにより佐久間湖に流出し約1ヶ月の間、船舶で代行したそうです。
2013年(平成25年)、門島駅~唐笠駅で土砂が流出し水窪駅~飯田駅が約1ヶ月不通となりバスで代行。
この他にも、線路に迷い込んだ鹿と衝突した電車が動けなくなった事故などもあるそうです。
このような地域に鉄道を敷設し、現在も運行している鉄道関係者、工事関係者の方々の苦労の一端が理解できると同時に、
秘境駅たる所以もご理解いただけるかと思います。
飯田線秘境駅シリーズに掲載した各秘境駅の一日当たり平均乗客数は
東三河地域研究センターの資料を参考にしました。
困難を極めた建設については、
新潟国際情報大学情報文化学部紀要
「三信鉄道工事と朝鮮人労働者ー『葉山嘉樹日記』を中心に」広瀬貞三
の論文で詳細をしることが出来ます。
飯田線秘境駅シリーズで掲載できなかった写真が幾つかあります。
今後、「番外編」として、チョコチョコと出して参ります。
管理人の気まぐれにお付き合いください。
お願い致します。