江ノ島・鎌倉人三昧(その5) ―駆込み寺 東慶寺と二人の尼僧の歴史物語―

「駆け込み寺」「縁切り寺」と言われている東慶寺

その権限は、約600年にわたり「寺法」として公式に認められていた

そこには二人の尼僧が大きくかかわっている

 

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  ↑ この時期限定で特別公開されていた「岩ガラミ」・・・花の奥には石の壁

 

 

今では、暴対法の対象団体ですら「駆け込む」必要も少なくなったと思われるが、

江戸時代までは、妻からの「離縁」は認められていなかった

 

どうしても夫と別れたい女性は

夫の側から離縁してもらうか

「駆け込み寺」に駆け込むという方法をとる以外に方法は無かった

 

江戸時代に「駆込み寺」としての権限を公に認められていたのは二つのお寺。

鎌倉の「東慶寺」と群馬の「満徳寺

それを実現させたのは、二人の尼僧と一人の女性の思いと行動

 

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  ↑ 東慶寺の山門 (ここを駆け上がって逃げ込んだのだろうか・・・)

 

 

 

東慶寺は、1285年、北条時宗夫人覚山志道尼によって開山された

覚山志道尼は、不法の夫に身を任せた女性を不憫に思いこの寺に駆け込んだ女性を救おうと考え、「縁切」寺法を定めた

 

東慶寺縁切寺法は、開山の時代から1871年明治4年)明治政府から禁止されるまで

なんと600年もの間、効力をもつことになる

 

東慶寺のホームページは興味深い話が満載だ

 

ホームページを見ていて、

鎌倉時代や江戸時代の出来事にあまりに無知なことに気付かされたので

簡単におさらいしてみる

 

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東慶寺開山の1285年頃の日本では何が起こっていたか。。。

  

遡ること100年ほどの平安時代末期、「平、源、藤原、橘」の四氏は別格だった

その理由は 「臣籍降下

四氏は天皇と血縁関係にある皇族であったことを示す氏

 

平安時代全般にわたり強い勢力を保っていたのは藤原氏

ちなみに平安時代摂政は全員が藤原氏

 

だが、平安時代後半の天皇継承争いが続くなかで

武力に長けた平氏と源氏の力が次第に強くなっていく

 

1156年の保元の乱で、平清盛源義朝に支えられた後白河天皇が勝利する

ところが1159年の平治の乱平清盛源義経が対峙し

その結果、平氏が圧倒的な力を持つようになる

  

1159年の平治の乱平清盛に敗れた源義朝源頼朝の父)は

逃走途中の尾張(愛知県)で命を落とす

尾張には義朝の正室、頼朝の母の出身である熱田神宮がある

 

義朝の嫡男頼朝は伊豆に流され、20年間にわたる流人生活を送らされるわけだが

敗れた敵はその子孫まで殺されることが多いこの時代に

頼朝が死罪を逃れられたのは、

母親が熱田宮仕の娘由良御前であったからなのかもしれない

 

 

1180年、後白河法皇の三男である以仁王の呼びかけに応じ

木曽の源義仲が挙兵し

源頼朝流刑地から戻り千葉で兵を起こす

 

1183年7月には木曽義仲平氏を京都から駆逐し京都に入る

ところが、義仲は

天皇継承に口をはさみ、

京都に駐在する武士集団(御家人)の狼藉を抑えられず

後白河法皇や公家・貴族から忌み嫌われ始める

 

 後白河法皇からの頼みを受け

1184年1月、頼朝は京都で乱暴狼藉を繰り返す義仲を駆逐する

 

頼朝の弟義経の活躍もあり

源氏は怒涛の勢いで平氏を打ち破っていく

 

1185年、源氏は壇ノ浦の合戦で平氏に勝利し

1192年には頼朝が征夷大将軍に任ぜられ

鎌倉時代が始まる

 

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しかしながら、頼朝の血を引く源氏の征夷大将軍は三代でとぎれ

それ以降の将軍は京から迎えた傀儡になり

幕府は北条氏による執権政治へと変質していった

 

初代執権は頼朝の妻政子の父である北条時政

時政は、自分の孫(頼朝の子供)である二代目・三代目征夷大将軍を暗殺し

四代目以降の将軍を傀儡とし、執権政治を確立している

 

東慶寺を開山した覚山志道尼の夫である北条時宗は執権8代目

時宗は1251年(建長3年)に生まれ、

14歳で執権補佐、18歳で8代目執権に就任する

 

1284年に33歳で亡くなるまでの時宗の人生の最大の課題は

北条一族の中での権力の掌握・保持と

フビライハンが統治する「元」からの従属要求する「国書」への対応

 

最大の危機は二度にわたる「元寇

 

それは時宗が8代目執権に就任した年の1268年

「元」からの国書を持った最初の高麗の使節大宰府に来た

その後、何度も元への従属を要求する使節が来たが

それに対し、朝廷および幕府は無視又は斬首という拒絶対応をした

 

結果、元は二度にわたり大軍で日本に攻め入る 

1274年の文永の役

1281年の弘安の役

 

突然訪れた暴風雨の助けもあって

2回とも元の大軍は退けられるのだが、

戦力となる御家人の確保、防塁をはじめとする防御設備の敷設

戦争終了後の恩賞の捻出、疲弊した御家人への徳政令等々

20代の時宗が解決しなければならない課題は山積していた

 

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   ↑ 時宗が眠る円覚寺の山門

 

1284年、時宗が病死する直前に

時宗と夫人は出家し、夫人は覚山志道尼となった

死後、時宗は自ら開山した円覚寺に葬られ

覚山志道尼は翌1285年に円覚寺の至近に東慶寺を開山した

 

冒頭に書いたように、この時の 覚山志道尼の思いは

時宗を弔う気持ちより

不幸な女性を救う寺法にあったのかもしれない

 

 

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 ↑ 花菖蒲

 

元寇対応と東慶寺開山の時代から330年を経た徳川幕府の時代

東慶寺縁切寺法を一段と強力なものにし、江戸時代にその効力を全国に知らしめたのが、もう一人の尼僧「天秀泰尼」の驚愕させられる胆力と彼女を支えた千姫

 

関ケ原の決戦(1600年)から3年後の1603年に徳川家康征夷大将軍に任命され

同年に、豊臣秀吉の遺言を守り、三男秀忠の長女「千姫」(家康の孫娘)が7歳で

10歳の豊臣秀頼と結婚する。

 

そして1609年に

豊臣秀頼に一人の娘が生まれた。「奈阿姫」

秀頼と千姫の間の子供ではなく、奈阿姫の母が誰なのかは諸説ある

千姫と奈阿姫の年齢差は12歳

 

千姫は、祖父の家康および父の秀忠から格別の寵愛を受けていたようだ。

 

1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で敗れた豊臣秀頼は母の淀殿と共に自害したが

千姫は戦場の混乱の中から救い出される。

 

その際、

千姫の助命歎願により、秀頼の娘「奈阿姫」(7歳)は千姫の養女となり、

徳川家康の命により天秀法泰尼として東慶寺に入った。

 

入寺の際、家康から「何か願いはないか?」と尋ねられた天秀尼は

「旧令の寺法断絶無きよう」と頼んだそうだ。

こうして、駆込み「寺法」は家康も認めた公法となる。

 

この後

千姫の手厚いバックアップを受けた天秀尼は

会津40万石の大名からの圧力に対し見事な胆力を発揮し

東慶寺の名を全国にとどろかせることになる

所謂「会津騒動」である

 

 

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 ↑ ↓ 東慶寺本堂裏の「岩ガラミ」

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 会津40万石の2代目藩主加藤明成の後世に伝わる評判はあまり良くない

幕末の国学者飯田忠彦が纏めた『大日本野史』によれば「ケチで横暴で家臣の諫言を聞き入れない」とある

日頃より諫言する先代からの筆頭家老堀主水に対し

ある時、加藤明成は極めて不当な裁定を下した

 

それに腹をたてた堀主水は、妻子や一族郎党とともに藩を出た

余程頭にきていたのか

途中で、城に向け鉄砲を放ち橋を焼き払い関所を打ち破り。。。

と、やりたい放題

時は1639年のこと

 

逃走途中、主水は東慶寺に妻子を預け、

自身は高野山から紀州徳川藩へと逃げ込んだものの

藩主加藤明成の命を受けた追手から逃げきれず、

最後は江戸幕府に嘆願書をもって駆け込む

 

幕府の裁定は、「家臣の礼を失っている」として身柄を明成に渡し

明成は主水を処刑した

 

東慶寺に対しても、加藤明成の追手が主水の妻子を引き渡せと押しかける

 

それに対し、天秀尼は

「古来よりこの寺に来る者いかなる罪人も出すことなし、無動至極なり。」

「明成を破却させるか、この寺を退転させるか、二つにひとつぞ」

千姫に訴え、

主水の妻子を守り切る。

 

かくして、東慶寺の寺法は40万石の大名からの圧力にも屈しないことを

世間に明示した

 

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東慶寺のホームページの資料によれば

慶応2年(1866年)の一年間で

20歳から54歳までの女性42人が駆け込み、寺法在寺中4人、逗留1人

 

 

東慶寺のホームページは

www.tokeiji.com

 

 

 最後に、天秀尼を支えた千姫にまつわる話を

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大坂夏の陣で救出された千姫だが、

救出後崩した体調が戻り江戸に戻る途中、

七里の渡しで出会った桑名藩主本多忠正の嫡男である本多忠刻に一目ぼれ

 

家康は千姫本多忠刻と再婚させようとしたが

千姫は豊臣家から離縁されてないというハードルがあった

 

そこで、一旦千姫満徳寺に入れ豊臣家との縁を切らせるというステップを踏んだ後

(実際は、侍女が千姫の名代として満徳寺の尼となったようだ)

1616年に二人は目出度く結婚した

 

こうして満徳寺江戸幕府からも縁切寺として認知された。

 

次回は、インバウンドでにぎわう報国寺