道端で出会った小さなピンクの花
#「アカツメクサ」でしょうか?
阿寺渓谷の3つの滝と
野尻森林鉄道の遺構と
透き通った阿寺ブルーの淵を紹介してきました。
最後に、木曽林業と森林鉄道と水力発電について触れたいと思います。
長々と文字が続きますので、退屈な方はどうぞ読み飛ばしてください。
9月末の記事で、
伊勢神宮の「式年遷宮」にも使われている「御料林」の運び出しが、
「木曽式伐木運材法」と呼ばれる木曽川とその支川を利用した運搬方法で行われていたと書きました。
大正末期から昭和にかけて「木曽式伐木運材法」は一気に森林鉄道に変わっていきます。
水力発電がこの運搬方法に引導を渡したという感があります。
明治時代、産業革命の中、猛烈なスピードで変化し進歩する欧米に
追い付き放されないようにする為、
当時の日本の人々は
貪欲に、リスクを恐れず、何度も失敗をしでかしながらも
制度設計と技術革新を進めていきました。
その一つが電力・発電事業です。
3月25日は「電気記念日」
1878(明治11年)のこの日、東京虎ノ門工部大学校(後の東京大学工学部)のホールで
「アーク灯」という電灯が明るい灯をともしました。
他方、ガス灯は電灯より早くに実現しています。1972年(明治5年)に横浜市に設置されました。
主な需要先が電灯だった時代、ガス灯と電灯の競争は熾烈だったと思われます。
黎明期の発電は小規模な石炭火力発電でした。
この頃の送電可能な範囲はとても狭いものでした。
東京では、明治20年頃に5つの「電燈局」という名称の発電所が設置されました。
出力は25kw。配電方式は電圧210ボルト直流三線式。
茅場町のホテル「相鉄フレッサイン」の前に記念碑が残されているそうです。
全国各地に小規模な火力発電所を所有して電灯販売をする電力会社「○○電燈」が乱立しました。
1891年(明治24年)に運転を開始しました。
今ではインクラインの桜が奇麗なところですね。
1889年(明治21年)に、大阪電燈は西道頓堀の火力発電所に60Hzの交流発電機を設置し、1150ボルトの高圧送電を開始します。発電機はアメリカのトムソン・ヒューストン・エレックトリック社製(現在のGE社)でした。
これにより西日本の電気の周波数は60Hzになり、
また高圧送電により長距離送電の可能性が生まれました。
10年後の1899年(明治32年)には、福島県の紡績会社が猪苗代湖の沼上発電所から11000ボルトの送電電圧で郡山まで送電を開始し
1907年には、東京電燈が山梨県の駒橋発電所から55千ボルトで83km離れた東京へ送電し始めました。
(因みに、現在の高圧送電は55万ボルトだと聞いています。)
そして、日露戦争(1904~1905)後の急速な経済発展と石炭価格の高騰により水力発電への期待が一気に高まってきました。
慶應義塾の創始者「福沢諭吉」の次女の婿となったのが旧姓「岩崎桃介」です。
慶應義塾の運動会で福沢諭吉の奥さんの目に留まったのが婿入りのキッカケだそうです。婿入りの条件とはアメリカ留学費用負担だとか。。。
慶應義塾卒業後、桃介は福沢諭吉の勧めで北海道炭鉱鉄道に勤めます。
20代後半に結核になり療養生活を余儀なくされますが、
株式投資にのめりこみ、日露戦争後の世間の予想を覆す暴騰の恩恵を受け、350万円(当時)という莫大な利益を手中に収めます。
桃介は後藤新平などの勧めで投資家から実業家へと転身を図ります。(なお、同時期に大儲けした多くの他の投資家は、その後の株式暴落で大損をしています。)
東海地区では、「名古屋電燈」の筆頭株主となり社長に就任して、木曽川の電源開発に注力していきます。
長野県、岐阜県を流れる木曽川のダム・発電所が関西電力に属することになった経緯については、関西電力のホームページをご覧ください。
鉄道網の整備も急速に拡大していきました。
国鉄中央線の開通状況はというと、
東京側が、1889年に新宿~八王子間が甲武鉄道として開通、
名古屋側は、1900年に名古屋~多治見間が開通、1909年(明治42年)には野尻まで開通します。
1911年には新宿から名古屋まで中央線全線が開通しました。
木曽川に発電所やダムを建設するためには水利権を取得する必要がありましたが、難しい問題の一つが御料林の木材を運搬する「木曽川式伐木方式」を解決することでした。
交渉の相手は宮内省帝室林野局。
そこで、桃介は後藤新平に応援を依頼しました。
ハードな交渉の結果、帝室林野局は「木曽川式伐木方式」放棄をみとめましたが、
代替の要求は、御料林と国鉄中央線の停車場を結ぶ森林鉄道および陸揚げ施設の建設費の全額負担でした。その額およそ100万円。(最終的には180万円まで膨らみました)
桃介は、日本電燈社内の猛反対を押し切り森林鉄道建設を決断します。
帝室林野局からの要求項目に、「野尻停車場を起点とし木曽川本流に鉄橋を架設して
殿および柿其の御料林に達する七哩三分の所謂野尻線」及び
「欄線、与川線、田立線の建設」が明記されていました。
(先般、掲載した野尻森林鉄道『木曽川橋梁』が含まれています)
こうして、水力発電を推進する名古屋電燈の資金で木曽谷地区の森林鉄道は一気に建設が進み
木曽川およびその支川を使っての材木運搬は廃れ、
河川の流れを利用した木材運搬から森林鉄道への変換は、木曽谷に留まらず全国に広がっていきました。
森林鉄道の拡大は1950年代前半にピークを迎え、1950年代後半からは急速に減少していきます。
森林鉄道衰退の理由は輸入材の増加による国内林業の衰退ではないかと思っていましたが、それは大きな間違いでした。
1950年代、1960年代は国産木材の生産量は増大し続けており、木材供給を円滑化するために「国有林事業に関する経営合理化方策」が策定され、
その中で既設の森林鉄道は自動車道に切替えて改良する」という方針が出されました。
河川による木材搬送を駆逐した森林鉄道は、およそ50年の後に、性能が向上し小回りの利く自動車に道を譲ることになります。
野尻森林鉄道も、1965年と1966年に廃止されました。
木材運搬の為の森林鉄道の最後は、1976年(昭和51年)、木曽谷の「王滝森林鉄道鯎川(うぐいかわ)支線」の廃止でした。
林野庁のホームページに、先般紹介した「木曽川橋梁」を対岸から渡る木材運搬列車の写真が掲載されています。