お久し振りのブログは、
「博多」に向かう東海道新幹線の車窓からの景色です。
モノクロと言ってもいいほどの色調になりました。
大和盆地の東南に位置する三輪山(高さ467m、面積350Ha)は
大神(おおみわ)神社のご神体です。
最古の神社で、国造りの神、医療・酒造・方除・医薬の分野の神様が祀られています。
大鳥居、二の鳥居を通り、階段を登ると大神神社の拝殿が見えてきます。
大神神社拝殿から左手に行き、狭井神社の手前に「市杵島姫神社」があります
大神神社拝殿と狭井神社の間に「少彦名神」を祀った「磐座(いわくら)神社」があります。
三輪山登拝の終着は「奥津磐座」という幾つもの大きな石の集まりで「大物主神」を祀ったもの。
途中には、「大巳貴神」を祀った「中津磐座」があります。
「磐座」が何なのかよく分かりませんが、
日本を作った神々が集まって、各々石に腰を掛けて
時として荒魂となり時として和魂となり
旨し酒を酌み交わしているのかもしれません。
大物主命は現に姿をあらわすと白い蛇の姿をしているそうです。
三輪山登拝の途中で白い蛇と遭遇した人がいたとしても
「口にしてはならぬ」という約束事を守って黙っているのかもしれません。
管理人も含め。
珍しい「黄南天」が実ってました
拝殿の右手前に「巳の神杉」があります。
最初に訪れた「狭井神社」の左奥に
「薬井戸」があり、「ご神水」をいただくことが出来ます。
11月21日にNHKで
三島由紀夫の特集が放送されました。
割腹自殺や思想そのものではなく、
自らのコンプレックスを克服する姿勢や
自分の思いを実現するための努力や
対峙する相手であっても、純粋さ、必死さ、思い入れに共感し敬意を払う姿勢に
フォーカスする良い番組でした。
真摯な対話や言葉の重みが
再び評価され大切に扱われる時代の復活を
強く期待します。
11月24日にアクセス数が32000を超えていました。
拙い画像と文章にも関わらず訪問して下さっている多くの方々に
御礼申し上げます。
今後もカメラを抱え訪問記を継続して行きたいと思っておりますので
ご支援のほどよろしくお願い致します。
「君はのちのちすべてを忘れる決心がついているんだね」
「ええ。どういう形でか、それはまだ分かりませんけれど。
私たちの歩いている道は、道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終って、海が始まるのは仕方がございませんわ」
(『豊饒の海』「春の雪」より、松枝清顕と綾倉聡子との会話)
『豊饒の海』4部作のカギとなる「月修寺」
圓照寺はその「月修寺」のモデルです。
圓照寺を訪れた秋の或る日、
寺の山門へと登っていく道は
時折小雨が降る中、いろ鮮やかさを増した紅葉があるものの
だれひとり歩く人もなく
唯々静寂が辺りを包み込んでいました。
(『豊饒の海』を読んでいない方はここから先には進まないでください。
ネタバレを含んでいます。)
松枝清顕が亡くなってから61年が経った1976年(昭和51年)7月22日
81歳になった本多繁邦は再び月修院を訪ね、
今は門跡となっている綾倉聡子に会います。
「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やら人違いでっしゃろ」
「しかし、御門跡は、もと綾倉聡子さんと仰言いましたでしょう」
「はい。俗名はそう申しました。・・・私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?」
「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば・・・それなら勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。』
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
「それも心々ですさかい」
(『豊饒の海』「天人五衰」より、本多繁邦と月修寺御門跡との会話)
1970年(昭和45年)11月25日
50年前の今日
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから
その思いが通らぬと知り
同行した「盾の会」隊員1名と共に総監室で割腹自殺を遂げました。
割腹自殺を遂げた日の朝、
『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終原稿が出版社の担当に手渡されています。
「天人五衰」のスタートは、主人公の安永透が15歳の時で
彼が見る船舶日報の日付けは昭和45年5月2日(土)となっています。
即ち、「天人五衰」の話の時期は、
脱稿する昭和45年から昭和51年までの5年間です。
物語の最後が
脱稿の時から5年後になっているのは何故なのでしょう?
しかも、最終巻では主人公達の輪廻転生を否定し、
清顕から託された輪廻転生を見届けるという本多繁邦の生き甲斐も成就させず、
読みにくい部分を乗り越えて『豊穣の海』四部作を漸く読み通した読者をも途方に暮れさせます。
「道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終って、海が始まるのは仕方がございませんわ」
三島由紀夫が歩んだ道も、道ではなく桟橋だったのでしょうか。
「勲は久しく夢見た維新を成就することなく死んだが、よし維新が成っても、そのとき彼がいやまさる絶望を感じたことは疑いがない。失敗しても死、成功しても死、ということこそ勲の行動原理であった筈だ。しかし、人間の不如意は、時の外へ身を置いて、二つの時、二つの死を公平に較べてみて、どちらかの死を選ぶということができないことだ。維新のあとの幻滅を味わって死ぬのと、味わわないで夙く(はやく)死ぬのと、等分に並べて撰み取る術(すべ)もないことだ。」
まるで評論家が書いたような文章ですが、三島由紀夫が作中で本多繁邦の口を使って書いたものです。
聡明な三島由紀夫は、当然の如く、現実の自分自身についても
例え維新が成っても(三島の檄により、万が一自衛隊が決起したとしても)
その後では幻滅を味わうことを理解していたのでしょう。
1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した三島由紀夫と森田必勝さんの荒魂が、今は和魂となっていることを願ってやみません。
三島由紀夫没後50年目の秋のある日、
多くの謎も死も何もかもを包み込んで
圓照寺は深く静寂を保っていました。
1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫は、
「天人五衰」の最終原稿を新潮者の担当者に手渡した後、
「盾の会」のメンバー4人と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、
午前11時55分頃、本館の前に自衛隊員を招集させました。
本館の2階バルコニーに立って演説をしようとする三島由紀夫に向かって
集まった多くの自衛隊員は野次・怒号を飛ばしました。
これに対し、三島由紀夫は
「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。・・・4年待ったんだ。」と反論しました。
怒号と野次が飛び交う中、演説を終えた後、
陸上自衛隊市谷駐屯地東部方面総監室において
「盾の会」会員1名とともに割腹自殺をしました。
自決した年の4年前というと1966年(昭和41年)のことになります。
その4年間、三島由紀夫の周囲はどんな状況だったのでしょうか。
1961年1月に「小説中央公論」に掲載された小説「憂国」は、
二・二六事件に加われなかった新婚の将校夫妻が事件の二日後に割腹自殺をするという物語ですが、
1966年4月、三島由紀夫自身の監督主演により映画化され上映されました。
三島由紀夫は「三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編をよんでもらえばよい」とまで言っています。
1968年10月には、私財を投じて民兵組織「盾の会」を設立しました。
当時、「おもちゃの兵隊さん」と揶揄されました。
1960年代後半は「全共闘」と呼ばれる学生運動の全盛期でした。
1969年5月、東大駒場キャンパス900番教室において、黒のポロシャツを着た三島由紀夫は1000名ほどの全共闘の学生を相手にたった一人で討論をしています。
命を懸けた対話だったと思います。
対話の最後は「諸君たちの熱情は信じる」という言葉だったそうです。
遺作となった『豊饒の海』は月刊誌『新潮』に掲載されました。
単行本の発刊日とあわせて記載します。
「春の雪」1965年(昭和40年)9月~1967年(昭和42年)1月・・・1969年1月発刊
「奔馬」 1967年(昭和42年)2月~1968年(昭和43年)8月・・・1969年2月発刊
「暁の寺」1968年(昭和43年)9月~1970年(昭和45年)4月・・・1970年7月発刊
「天人五衰」1970年(昭和45年)7月~1971年(昭和46年)1月・・1971年2月発刊
『豊饒の海』には創作ノートが残されていて、それによれば
「奔馬」1965年2月、「圓照寺」1965年2月、「大神神社」1966年8月、「神風連1966年8月」という記録があります。
自決前の4年間と『豊饒の海』4部作の執筆は三島由紀夫の中で並走していました。
おはようございます。
名張で準急に乗り換えて桜井に到着。
前日の天気予報では「曇り時々雨」となっていて
三輪山登拝が出来るかどうか心配でしたが、
日頃の行いが良いからかw
朝の天気予報は「午前中は雨の心配なし」に変わっていました。
JR万葉まほろば線で三輪駅まで行くルートと
バスで大神神社二の鳥居まで行くルートがあり、
バスの場合は神社のすぐ前まで運んでくれます。
バス停でバスを待っている時に
年配の女性から、奈良言葉で
「バスの行き先を間違えると長い距離を歩かないといけないので注意しなさい」
という趣旨の注意をいただいた。
バスの車中では、途中下車する方から詳細な補足説明を受け
奈良桜井の地元の方々の親切心にほっこりとしました。
バスは大鳥居のところで右折して参道を大神神社の門前まで入っていきます。
バスを降り、
先ずは、三輪の荒魂を祀る「狭井神社(さいじんじゃ)」に向かいます。
「狭井神社(さいじんじゃ)」は三輪山登拝の許可をいただく社務所でもあります。
三輪山登拝の最中は飲食も撮影も禁止です。
出来事を口外することも止められています。
以前は限られた人しか入山が認められなかったようです。
神である山を歩くのに履物は失礼だとして
裸足で登拝する方もいます。
(『豊饒の海』を読んでいない方はここから先に進まないでください。
ネタバレを含んでいます。)
『豊饒の海』第一巻「春の雪」の主人公松枝清顕は20歳で亡くなり
「奔馬」の飯沼勲に輪廻転生したように見えます。
輪廻転生を証するものとして三島由紀夫が用意したのは
清顕が友人の本多繁邦に託した「夢日記」と左脇の三つの黒子。
更に、死の直前、清顕が本多に残した
「今、夢を見ていた。又、会おうぜ。きっと会う。滝の下で」という言葉。
3つの黒子があるのを目にした時
本多繁邦は(そして読者も)松枝清顕から飯沼勲への輪廻転生を確信し始める。
その滝の名は
三輪山の登拝道の途中にある「三光の滝」。
「奔馬」の小説としての評価は様々ですが、
三島由紀夫が最も思いを寄せたのは、『豊穣の海』四部作の中で
「奔馬」の飯沼勲に対する思いが最も深いと感じます。
数年後に割腹自殺する自らの姿を念頭に置きながら筆を進めたのでしょうか。
さて、
少しの間、お休みしておりましたが、
再び、本ブログに戻って参りました。
今後もよろしくお願い致します。